榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

退位したエドワード8世とシンプソン夫人の「世紀の恋」の隠されてきた真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1272)】

【amazon 『現代イギリスの社会と文化(増補版)』 カスタマーレビュー 2018年10月18日】 現代イギリスの社会と文化(増補版)

林の小道を散策中、私たちの5mほど先に突然、キジの雄が現れました。カメラを構える間もなく、藪に消えてしまいました。シジュウカラをカメラに収めることができました。あちこちでヒヨドリが鳴いています。ジュウガツザクラ(十月桜)が淡桃色の花を、コブクザクラ(子福桜)が白い花を咲かせています。チャ(チャノキ)が白い花と実を付けています。ホウキギ(ホウキグサ、コキア)の茎葉が赤く色づいてきました。因みに、本日の歩数は10,847でした。

閑話休題、『現代イギリスの社会と文化――ゆとりと思いやりの国(増補版』」(宇野毅著、彩流社)には、イギリスを愛する著者の熱い思いが籠もっています。

「イギリス生活ことはじめ」、「イギリスを楽しむ」、「イギリスに学ぶ」、「イギリスを考える」という章立てからも分かるように、イギリスで暮らしたい、一定期間滞在したい、旅行で訪れたいという人には、最良の参考書となるでしょう。

例えば、アフタヌーン・ティーの由来は、このように説明されています。「19世紀初頭には紅茶の消費量が激増してくることとなります。第7代ベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリアは、午後の遅い時刻には気分が沈むと不平を言ったと伝えられています。当時は、一日二食の時代で朝食と夕食だけで、夕食は8時頃というのが一般的でした。そこで公爵夫人は、午後に私室でお茶とサンドイッチの軽食をいただいたのでした。・・・夏のこの習慣は人気を博すようになり、・・・瞬く間に上流階級では、午後の半ばに、紅茶を飲みながらサンドイッチを食べるアフタヌーン・ティーの習慣が定着するようになったのでした。・・・サンドイッチも上流階級の習慣でした。第4代サンドイッチ伯爵はカードゲームが大好きで、食事に行きたくありませんでした。そこで、肉やパンを持ってこさせて、その肉をスライスしたパンで挟んで食べながら、手を汚さずにゲームに興じたのでした」。

歴史好きの私にとって、とりわけ興味深かったのは、エドワード8世とシンプソン夫人の「世紀の恋」の隠されてきた真実です。「独身の長男エドワード皇太子は、本来、出会ってはいけない女性と初めて出会うこととなるのです。・・・ダッドリーウォード夫人とは1918年2月に出会い、十数年程のめり込んだ後に、1930年にはファーネス夫人へ気が写ります。皮肉な事に、バーリントン・コートでのパーティーの席で皇太子にシンプソン夫人を紹介したのが、このファーネス夫人でした。・・・不倫を繰り返していた皇太子でしたが、これが、王室危機の始まりでした」。「この時点で、二人の関係は、まだ公には知られていませんでしたが、公開された政府文書によれば、その時点で、シンプソン夫人には、既に秘密の愛人が存在していたとの特殊機関からの報告書が存在します」。

「(父王の逝去に伴い、王位に就いたエドワード国王は)シンプソン夫人との結婚と国王として留まることを望んだのでした」。「国王は、シンプソン夫人と結婚して王位に留まるべく、最後の試みに必死でした」。しかし、結局、エドワード8世は退位し、ウィンザー公爵となり、弟のヨーク公アルバート王子がジョージ6世として即位します。「王位を望まず、王族とは言いながらも、ごく普通の家庭生活を営んでいたヨーク公が、皮肉にもジョージ6世として即位することになったのでした」。ジョージ6世は、現女王のエリザベス2世の父です。

「ジョージ6世の(56歳での)死は、第二次世界大戦中の激務や戦後の緊張がたたったものと思われますが、王妃は、夫が国王という任務にさえなければ、かくも短い人生で終わらなかった筈であると思い、兄王であるエドワード8世を退位に追い込んだシンプソン夫人をひどく憎んでいたと云われています」。

著者の論文「エドワード8世退位の社会的背景――70年後の真実」には、さらに驚くべきことが記されています。「ヒットラーは、大戦中、ドイツが勝利した時に、(ウィンザー)公爵を(イギリス)国王に復帰させてナチスの傀儡政権を作ろうと、考えていたとも言われている」。

「イギリス政府は。ある時期に公爵夫人(=シンプソン夫人)は極めてナチ寄りであることを突き止めたが、その事実は政府にとって受け入れがたいことであり、それが理由でエドワードとの結婚を認められなかったと信じるに足る十分な根拠があるという。1940年9月13日付の極秘メモでは、公爵夫人は(ドイツ外相の)リヴェントロップと接触しており、彼とは常に連絡を取っているとの情報提供者の結論に基づく報告がある。公式の高い地位にある為に、公爵夫人は、英仏の公的活動に関する様々な情報を入手しており、それらをドイツに流していたという」。

「(1940年)7月には、夫妻はボルトガルへ移るが、そこで公爵は、イギリスはドイツの侵攻に抗する見込みは殆どなく、ドイツと和平交渉を試みた方がよいとの極めて不穏当な発言をする」。

愛する女性のために王冠を捨てた世紀の恋などという見方は、上っ面を撫でただけのものだったことが明らかにされています。この著者の極秘情報を発掘する力には脱帽あるのみです。