榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

中国の乱世に、十一人の天子に仕えた稀有な政治家がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1599)】

【amazon 『馮道』 カスタマーレビュー 2019年9月3日】 情熱的読書人間のないしょ話(1599)

庭の水遣りに行ったはずの女房の悲鳴が聞こえてきました。慌てて駆けつけると、スズメガ科のセスジスズメの幼虫が葉に向かって這っているではありませんか。測ってみたら、8.5cmありました。トウガン、ズッキーニ、トウガラシの変種のヤツブサが実を付けています。因みに、本日の歩数は10,545でした。

閑話休題、『馮道(ふうどう)――乱世の宰相』(礪波護著、中公文庫)によって、中国の乱世を強かに生き抜いた宰相がいたことを、初めて知りました。

907年の唐滅亡から960年の宋による統一まで、五つの王朝(五代)と、諸地方政権(十国)が分立・興亡を繰り返した期間は五代十国時代と呼ばれています。この混乱と激動の時代に、五朝八姓十一人の天子に高位高官(多くは宰相)として仕えた政治家、それが馮道です。

「馮道は、唐末の黄巣の乱の最中に生まれ、唐から宋への中国史の転換期、五代十国の分裂時代に、五つの王朝(後唐・後晋・遼・後漢・後周)、八姓(後唐の荘宗・明宗・末帝がおのおの一姓。後晋の石氏。遼の耶律氏。後漢の劉氏。後周の太祖・世宗がおのおの一姓)、十一人の天子に高位高官として歴事すること三十年、宰相を二十余年務め、古来、無節操・恥しらず者流の代表とされてきた。まさに、シュテファン・ツヴァイク描くところのジョゼフ・フーシェの中国版というわけだ。そのような判断を下したのは、まず『新五代史』の著者たる欧陽修であり、司馬光が(『資治通鑑』で)それを敷衍した。その後も、この二人が与えた評価が主として受け継がれてきたが、李卓吾のように、その説を信奉しない者もいたのである。破廉恥漢の汚名をきせられたり、ときには過褒の辞でつつまれた馮道なる人物は、いったいいかなる時代を、どのように生きぬいたのか、できるだけ忠実にその生涯を跡づけてみよう」。著者の宣言どおり、馮道の目まぐるしい経歴が克明に辿られていきます。

馮道という人物の特性が窺われるのは、明宗が貴族の家柄でない馮道を宰相に指名した際の評価です。「明宗が敢えて馮道を宰相候補者にあげた言葉をみればわかるように、その理由は二つあった。一つは、かれの博学多才ぶりである。・・・もう一つの理由、それは馮道が物と競うことのない性格の持主である、ということであった。万事なにごとにおいても他人と競争し、他人をおしのけて自分の我を通そうとしない馮道の性格に明宗は共鳴を感じたのであった。このような人物は、とくに乱世においては、希有の得がたい存在であった。決して無理をせず、物と競うことをしない、というのは、実は明宗自身の生活のモットーだった。馮道は、かれの性格の最大の理解者によって、宰相の座に引き上げてもらう僥倖を得たのである」。馮道四十六歳の時のことです。

「家柄に頼らず個人の才覚で宰相の座を占めた馮道は、自分と同じような立場の人間、すなわち門閥をもたないけれども文才があり、博い知識をもつ者たちはみな登用させ、唐末以来の貴族でも軽佻浮薄な者が高官につかないように抑圧した」。

「はじめは成上り者の宰相、田舎者の宰相と、軽蔑の目を向けていた連中も、日がたつにつれて、馮道の教養がなみの凡庸なものでないことを、知らされざるをえなかった」。

末帝即位の際の馮道の行動が人々から非難されました。「しかし馮道は、うしろめたいなどという気持をついぞもたなかった。何事も現実を直視することが第一なのであった」。

「馮道はそれまでに何人かの軍閥につかえ、かれらの滅亡を第三者のような立場で見送ってきた。滅びた者は、武将でありながら武力を失って滅びたのだから自分が悪いのである。武力をもたない(馮道のような)文官はその間に立って何もできるはずがない。ただ自分と関係があっただけの理由でそれらの武将と生死をともにしていたら、命がいくつあっても足りない。軍人たちは自分らで勝手に殺しあえばよく、文官はその勝った方に出頭して使われていくだけのことだ。ただ、戦火にさらされながら、軍閥から搾取されつづけ、生きた心地もないその日暮らしの生活を送っている大多数の庶民の苦痛を、すこしでも軽減してやることを、精いっぱいの仕事とするよりほかはない。これは馮道が体験から得た人生哲学であった」。

「馮道自身は、いつも与えられた条件の下で、自分が最善と信じる道を歩んできた。自分がその時点で、できうる最善最良のことを行なえば、天はきっと扶けてくれるものと信じて疑わなかった。馮道の生き方は、単純といえば単純、プリミティブといえばプリミティブであって、そこには、司馬遷のごとき、『天道是か非か』という深刻な疑いは存在しなかった。天性の楽天家なのであった」。

「(范質の『五代通録』が)馮道の私生活が、清廉潔白であったことを、見事に描きだしている」。

馮道が宰相として政治の中枢に返り咲いたのは、七十歳の時のことでした。

「世宗の親征にもっとも強く反対したのは、ひきつづき宰相の座を占めていた馮道で、すでに七十三歳の老人であった」。それから間もなく、波瀾に満ちた七十三年の生涯を閉じました。

出世も左遷も経験した馮道という頗る興味深い人物に会わせてくれた礪波護への感謝の気持ちでいっぱいです。