榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

徳川光圀の名編集長ぶり、そして、徳川綱吉との確執・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1800)】

【amazon 『水戸黄門の世界』 カスタマーレビュー 2020年3月19日】 情熱的読書人間のないしょ話(1800)

我が家の庭には、毎日、メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリがやって来ます。桃色のハナモモが見頃を迎えています。ベニバナトキワマンサクが赤紫色の花、レンギョウが黄色い花、ボケが白い花、オトメツバキが桃色の花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,826でした。

閑話休題、『水戸黄門の世界――ある専制君主の鮮麗なパフォーマンス』(鈴木一夫著、河出書房新社)は、『桃源遺事』を始めとする彼の言行録、『玄桐筆記』、『義公遺事』など近臣たちの手記を活用することによって、仁政や尊皇からのみ語られがちな徳川光圀の真の姿を浮かび上がらせようという意欲的な試みです。単なる明君という枠には収まらない、生々しい光圀像を再現することに、見事に成功しています。

「常に朝廷を思い、民に慈愛の眼差しを向け、『天下の楽しみに後れてたのしむ』はずの明君が、花柳界で悪友とともに酒を喰らい、三味線を弾き、手打ちうどんをつくって得意になり、美女のいる屋敷へしげしげとかよい、はては落とし子までつくったらしいというような話は、義公光圀を語るにふさわしくなかったのである。他方で『水戸黄門漫遊記』がしだいに形をなしていったと同じ時期に、このようにして、水戸学の系譜を引く人々や明治の世の学者先生がたが、一心に聖人君子的光圀像を担ぎ上げたものだから、いつも真摯で謹厳な顔をしていたかのような明君の像が、光圀の真の、唯一の姿として国民のあいだに流布していった」。

私にとって、とりわけ興味深いのは、折に触れ訪れる小石川後楽園に関する「藩邸の庭『後楽園』」、『大日本史』編纂事業における「名編集長の手腕」、五代将軍・徳川綱吉との確執を辿った「光圀と綱吉」――の3点です。

「寛文元(1661)年7月、死の床に父を看取ってこれを瑞竜山にほうむった光圀は、8月、(三代将軍・徳川家光から)家督を許されて江戸小石川水戸藩邸の主となった。江戸における水戸藩の屋敷は、上屋敷にあたる小石川の本邸、駒込の下屋敷、元禄ごろから向島に浜屋敷と称する中屋敷の3つが主なものである。藩主の常の居館である小石川邸は、江戸城外郭の小石川門を出た外濠(神田川)沿いにある。JR水道橋駅から飯田橋駅にかけての北に、9万9753坪(約33ヘクタール)――これは幕末の面積、光圀の当時はもう少々狭かった――の面積を占めていた。現在の文京区役所・東京ドーム球場・後楽園遊園地・中央大学理工学部・小石川後楽園がその屋敷地に含まれているといえば、その広さが実感できよう。・・・国の特別史跡・特別名勝に指定されている小石川後楽園は、いわゆる『回遊式泉水庭園』という大名庭園の代表的な遺構である。初代水戸藩主徳川頼房によって、寛永5、6(1628、29)年ごろから造営が始まったが、光圀がこれを引き継ぎ、文人趣味・中国趣味を加えて庭を完成したということになっている。ここでは、光圀が演出したと伝えられる数々の風景をいまも見ることができる」。迂闊にも、私の気に入りの散策コースである小石川後楽園=水戸藩邸と思い込んでいたが、小石川後楽園は広大な水戸藩邸の一部に過ぎないことを、本書によって初めて知りました。

「(『大日本史』編纂のための)史館(彰考館)では、覆刻・校訂・増補・新編・新撰など、あらゆる編集・出版作業が常時行なわれ、史館は一大出版所の観があった。・・・単に修史のためだけではなく、学芸の振興、文化の普及、実生活上の啓蒙にいたるまで、光圀が書物に多くのものを期待し、編集・出版事業に力を注いでいた事実が浮かび上がってくる。史館が担っていたもう一つの啓蒙的な役割は、藩の教学を担当していたことである」。

「史館に課された多岐にわたる業務――それも、編集方針の策定や資料研究・原稿執筆というような高度に知的な仕事から、資料の筆写、書物の修繕といった機械的な手作業まで――を、錯雑も遅滞もなく推進するためには、これらを統括する有能なリーダーがなくてはならない。・・・史館総裁のうち、佐々宗淳(十竹)と安積覚(澹泊)とが、水戸黄門漫遊記の『助さん、格さん』のモデルということになっている。だが実は『モデル』といわれるほどのものではない。両人の姓名をもじっただけのことである。佐々介三郎(宗淳の通称)が助さんこと佐々木助三郎、安積覚兵衛(覚の通称)――安積を『アツミ』と読んで『渥美』の字をあてた――が格さんこと渥美格之進に化けたということである。さて、総裁の上には、いうまでもなく光圀がいる。こと『大日本史』編纂については、彼が『自分は史館の一員なり』といくら強調しようとも、事実上の編集長であり、史館における事業の全体を把握し、指揮していた。光圀の指導は、ことの大小にかかわらず、具体的、かつ緻密なものである。・・・光圀の卓抜な手腕は、何といっても総編集長としてのリーダーシップにある」。続けて、その編纂方針の特色――資料の博捜、原稿の執筆、旧跡の調査――が詳述されています。「『大日本史』編纂の基礎となっている歴史研究の具体的方法、さらにそれを支える文化事業を指導した光圀の力は、当時はもとより、江戸時代を通じても比類するものがない」。

私の目から鱗が落ちたのは、著者のこの指摘です。「水戸学に内在した尊皇思想が、幕末の政治的危機にあたり、尊皇攘夷運動、倒幕運動へ展開したことは事実といってよいだろう。藤田東湖あたりによって、観念レベルの問題だった光圀の尊皇が過激に鼓吹され、現実の運動論に変貌したにちがいない。おそらく、尊皇攘夷から倒幕へ、そして王政復古といった文脈であらわされる思想は、光圀とは無縁だったはずである。・・・彼(光圀)は日本の文化的宗主として朝廷を仰ぎ見ることはあっても、政治的主権者として天皇を推戴するという意図をもつことはなかったのである」。

「将軍(綱吉)の御意を背負って諸大名に臨む老中の権威をもはばからず(老中を)面罵する光圀は、老中らにとっては、煙たいという以上の存在だったにちがいない。・・・彼(光圀)は、将軍綱吉の猜疑を含んだ目が、幕閣をとおして自分に注がれていることを、知っていたのである」。水戸様は彼らにとって要注意人物だったのです。

「綱吉にとって、学問は趣味・遊興でしかない。・・・このような資質の持ち主である綱吉という人物に光圀が失望し、その人物が気紛れに強権を振りかざすにいたって、光圀が『しばしば直言を申されし事』(『徳川実紀』)という事態が生じてくる。光圀と綱吉の間にわだかまっていた、ある種の緊張関係が、古くから陰に語られている。『徳川実紀』でさえも、『(光圀)卿任職の間は(綱吉との関係が)いと疎々(うとうと)しくましましければ・・・』といっているほど、記録の上で表立った対立抗争こそあらわれていないが、そこには感情的あるいは感覚的な齟齬が生じていたのである」。

「おおらかな精神を欠く小心な綱吉が将軍になると、『徳川実紀』には死罪・切腹・流罪・追放・閉門・免職などの処罰記事が目立つようになる。これを『綱紀粛正』といえば聞こえはいい。だが、処分の実態はかなり恣意的であり、『故ありて・・・』という理由不明、つまり綱吉の不興をかって処罰されたケースが多いことが特徴である。そこには、弱い立場にある家来をいたぶるような趣きが見える。・・・綱吉の治世の後半に、生類憐みの令により罰せられた者の数が多いことは有名だが、治世の前半でさえも、処罰断罪の例は前代と比較にならぬほど多い」。

「五代将軍徳川綱吉の名を有名にしている生類憐みの令の影響が深刻になるにしたがい、光圀と綱吉との間に醸成されていた微妙な空気は、いよいよ重苦しいものとなっていった。・・・この法の末端で起こっていた馬鹿馬鹿しい処罰の実態は、綱吉にとって心外なことだったのだ、と綱吉を弁護してその善意を強調する説や、近ごろはこの法の精神を社会史の上で積極的に評価――動物愛護や自然保護の先駆――しようとする学説があって、いろいろなことがいえるものだとおどろくばかりである。これらは、4月11日令の条文の言辞のみにこの法の意義を見ているのである。綱吉の頭の中には自然保護の精神などひとかけらもない」。著者のこの痛烈な指摘は、強い説得力があります。

「綱吉との(長期に亘る)暗闘の果てに、ともかくも光圀は、元禄3年10月14日、30年にわたり占めてきた水戸藩主の座を退いた」。「退いた」のではなく、綱吉に「退かされた」のです。