榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

読書の達人による読書の勧め、読書会の勧め・・・【情熱的読書人間のないしょ話(34)】

【amazon 『読書と社会科学』 カスタマーレビュー 2014年11月27日】 情熱的読書人間のないしょ話(34)

「天空の城」として人気の竹田城跡を女房と訪れました。霧が立ち上っていたものの、残念ながら雲海棚引く情景は見られませんでしたが、急な坂を登り切った先に広がっていたのは、想像していたより大きな山城の跡でした。暫し、武将たちの夢の跡を辿ることができました。

閑話休題、敬愛する社会学者・内田義彦が読書と読書会について述べている『読書と社会科学』(内田義彦著、岩波新書)を繙きました。

「少くとも、いい本は、上手に読めば、読んだだけの甲斐があったと思わせるものを持っております。読んで初めて眼が見えてくることは確かにある。読まなきゃ損です。真に自由な眼の持ち主になれない。で、本でモノが読めるように、そのように本を読む。それが『本を読む』ということの本当の意味です」。「『読む』と一口にいっても、読み方に二通り、根本的に性格が違う読み方があると思うんです。『情報として読む』のと『古典として読む』の二つです」。

「古典として読む」とは、どういうことでしょうか。「新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受けとり方、何がそもそも有益な情報か、有益なるものの考え方、求め方を――生き方をも含めて――変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような『読み』があるわけです。古くからの情報を、眼のも少し奥のところで受けとることによって、自分の眼の構造を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変る。そういうふうに読む読み方を、『古典として読む』という名に一括しました」。

それでは、どう読めばいいのでしょうか。「深いところで著者を信じることは必要ですが、自分を捨てて著者にもたれかかっちゃいけない。その時その時の自分の読みをとにもかくにも信じてそこに自分を賭ける。という行為(のくりかえし)がなければ、A氏(著者)の本が名著であるゆえんをこの眼で確認し、自分の古典として獲得することは、何回くりかえし読んでも不可能です」。

「ところで、本を読むのも難しいけれど、読書会をもつのもまた難しい。読書会というのは持続的に集まって本を読むので、一般化すれば研究会に当りましょう。研究を軸にした持続的な集まりですね。ところが、そういう会を、楽しく実りがある会であるようにもってゆくのは、予想外に難しいんです」。「どうか、会が楽しい会であるよう、有用かどうかだけでなくて楽しいかどうか、楽しみ方、楽しみの中身が深められているかどうかをもチェックポイントの一つにして、運営していって下さい」。「お互いに、思わざるところにある思わざる宝を発掘する術を獲得するよう、努力しましょう。その修練の場が読書会だと思うんです」。

「いい本のすばらしいところは、それによって同時に、それとは別の、他のところにある素晴らしい宝を発見する感覚と術と確信を会得させてくれることにあります。読み上手になる。古典といわれていない本だって古典として発掘する術を覚える。古本屋の棚をみわたして、『駄本』のなかに、古典として読めそうな本を見つけるのは、楽しいですよ」。全く同感です。