夢を抱いて満州に渡った民間人たちの悲惨な結末・・・【情熱的読書人間のないしょ話(180)】
散策中に、一面に漂う甘い香りに導かれて辿り着いた先に、黄色い花で覆われたキンモクセイが聳えていました。根元に近い幹は私が両手で抱えようとしても、とても足りない太さです。その家の主によれば、100年以上の古木ということです。我が家の30年物のキンモクセイもそれなりに頑張っていますが、この見事な大木には思わず息を呑みました。
閑話休題、『移民たちの「満州」――満蒙開拓団の虚と実』(二松啓紀著、平凡社新書)は、心傷む書です。
国にとって、満州はどう位置づけられていたのでしょうか。「日本の満蒙特殊権益に端を発した満州事変が起こり、日中戦争、太平洋戦争へと泥沼化する中、日本にとって、資源を供給する生命線としての満州はさらに重要性を増した。地方の農村を救済するという経済更生の意味合いは失われ、満蒙開拓は国家総動員体制に組み込まれていく。戦争は国民生活にも大きな変化をもたらした。日中戦争以降、・・・中小商工業者は転業の嵐にさらされた。一時は約130万人の失業者があふれたという。国策によって転業者対策と満蒙開拓事業が結びつけられた後、転業者の新しい受け皿として『満州』が再び着目される」。
国民にとって、満州とはどのような存在だったのでしょうか。「ソ連参戦と満州崩壊の結末を知る現代のわれわれから見れば、なぜ戦争末期に満蒙開拓団を送出したのか、死に追いやるようなむごい行いをしたのかと、素朴な疑問が生じる。しかし、当時の人たちの感覚からすれば、渡満は一つの選択肢だった。満州には空襲もなければ、本土決戦の不安もなかった。日ソ中立条約があり、無敵の関東軍がいる。そんな安全神話を信じ切っていた」。
満州の日本人は軍に見捨てられたのです。「選局の悪化にともない、大本営は関東軍の戦力を割き、精鋭部隊を南方へと移動させた。・・・それは、大半の開拓地を含む満州四分の三の放棄を意味した。そんな軍の戦略を満州の日本人が知るはずもなかった」。
1945年8月8日深夜、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告します。「関東軍は、表向き徹底抗戦を唱えつつ、8月10日頃には疎開のための専用列車を仕立て、関東軍や満鉄社員の家族を対象とした避難を始めている。続いて11日、関東軍は官吏家族の避難を指示する一方で、『一般市民は準備に手間どり発車に間に合わぬので、輸送力の関係上集結の早い軍人軍属の家族から先に輸送した』という。もはや軍ではなかった。弁明の余地なき日本史上最大の汚点ではないかと筆者は思う」。希望に満ちた天国のような土地だという国策に乗せられて満州に渡った民間人は、撤退時には軍によって後回しにされたのです。
生き残った女性の証言は、目を背けたくなります。「二人の若いソ連兵がその婦人の腕と髪の毛を掴みとり、まるで小荷物でも扱うように軽々と引きずっていって、戦車の前に、ポーンと投げ捨てました。と、途端に戦車が『ゴオー』と一吠えしたかと思うと、『バシャ!』。その婦人を赤ちゃんもろ共・・・轢いたのですよ。アッという間の出来事でした。『バシャ』という音といっしょに、肉片が、骨が、脳味噌が、私の顔や体に飛びかかりました。余りのことに『ハッ』としてつぶろうとした目が、張りついたように閉じられませんでした」。
「日本人が『安全』と信じた満州はまたたくまに崩壊し、ソ連軍と『匪賊』が蹂躙する無法地帯と化した。在満日本人の多くが難民となり、収容所生活を余儀なくされ、帰国までの間、飢え・寒さ・病の三重苦を強いられた。自決や病死などによる犠牲者は8万人を超える。たとえ生き残ったとしても、女性たちは凌辱を受け、男性たちはシベリアに抑留され、幼い子どもたちは孤児となり、長きにわたって戦争の影におびえ、苦しんだ」。
国家権力に翻弄された人々がいたことを、私たちは忘れてはいけないのです。