井上ひさしの透徹した目による書評集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(243)】
東京・築地の聖路加国際病院の旧病棟のチャペルのステンド・グラスには、MRとして当院を担当していた当時、しばしば癒やされたものです。旧病棟前の庭園の落葉が素敵です。築地市場は来年11月には豊洲に移転してしまうので、記憶と記録に残すべく写真に収めてきました。因みに、本日の歩数は25,371でした。
閑話休題、『井上ひさしの読書眼鏡』(井上ひさし著、中公文庫)は、井上ひさしの透徹した目による書評集です。
「不眠症には辞書が効く――今年になってからの睡眠薬は、『現代英米情報辞典』(飛田茂雄編、研究社出版)で、『郵便配達人は2度ノックをし、電報配達人は3度ノックをするのが決まり。華族や訪問客は少なくとも5度鳴らす』といったようなおもしろくて役に立つことがたくさん書いてあって、とてもたのしく眠ることができます」。おかげで、私の好きな映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のタイトルに対する疑問が氷解しました。
「未来見据える知者の英知――世の中には、恐ろしくなるほどよくモノを知っている人たちがいます。途方もない情報通や歩く情報タンクとしか言いようのない人やとんでもない物知り博士がごまんといる。そこでわたしたちは彼らの話にできるだけ耳を傾けるようにするのですが、しかしたちまち飽きてしまう。なぜでしょうか。答えは明らか。彼らがただの物知りにすぎないので失望してしまうのです。自分の死っていること、学んだこと、考えたことを、揉んで叩いて鍛えて編集し直して、もう一つも二つも上の『英知』を創り出すことのできる真の知者が、思いのほか少ないのでがっかりしてしまうのです。山崎正和さんは、その数少ない知者の一人で、近著『二十一世紀の遠景』(潮出版社)を読むと、それがよく分かります」。似非知者に対しては容赦がありません。
「新宿に生きた林芙美子――川本三郎さんの新著、『林芙美子の昭和』(新書館)は、中味がよくて文章が平明、かつ深くもあって、心から堪能しました。・・・林芙美子を読み抜いた川本さんは『新宿』という街に注目する。なぜ新宿か。これは、その時代の東京が、じつは巨大な工業都市であったという川本さんの知見にもとづいています。・・・新興の盛り場ですから、たくさんの隙間があります。林芙美子はその隙間を巧みに潜り抜けながらなんとか食べて行く。そして『林芙美子は新宿こそを自分の町と思い定める。貧しい女性にとっては、銀座は敷居が高すぎる。新宿ならば、気兼ねすることなく暮すことが出来る。・・・つまり、林芙美子という、地方から東京に出て来て、東京に何ひとつ伝手を持たない人間にとって、新宿は、過去の伝統や習慣にとらわれない新しい町として、生き生きと暮すことの出来る舞台となったのである。・・・これまで林芙美子というと女学校時代を過ごした尾道のことが語られることが多かったが、新宿のことも見過ごすわけにはゆかない』」。この見解には目から鱗が落ちました。
「軍事裁判に三つの意義」では、『ニュルンベルク軍事裁判』(ジョゼフ・パーシコ著、白幡憲之訳、原書房)が取り上げられています。「この本でとりわけ精彩を放っているのは、ヘルマン・ゲーリング(航空相・国家元帥)で、たとえばこんなことを云っています。『もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。・・・そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ』。この名言(?)に接しただけでも、4600円払ったかいがありました」。ナチスの要人が狡賢い奥の手を自ら明かしていますね。
「『苦笑の人』清張の本質――こんど出た宮田毬栄さんの『追憶の作家たち』(文春新書)は、編集者時代に担当した7人の作家について書かれた、面白いけれども、しっとりとした味わいを持つ書物ですが、そのなかにこんな数行がありました。『思えば松本清張は苦笑の人であった。33年にわたる長い年月の間、私は清張さんの哄笑を見たことがない。屈託ある複雑な笑いが身についていたのだろうか』。・・・『さまざまな能力に恵まれた清張さんではあったが、畢竟、その天職は書くことにあった。つねに探求心を失わずに、書くことによってのみ慰藉を受けた人が松本清張であったと思う』。書くことによってのみ慰藉を受けた人。わたしはこれまで、これほど端的に清張さんの本質を抉った評言を知りません」。ひさしも清張が好きだったことが分かり嬉しかったのですが、ひさし自身も「書くことによってのみ慰藉を受けた人」だったことと大いに関係があると考えています。
米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』は、このように評されています。「書評の筆をとるときの彼女は、読者が読んで得をしない本は絶対に取り上げないという態度を崩さなかった。気に入った本、読者に薦めたい書物だけを取り上げた。つまり惚れ抜いた本にだけ書評を書く。力強い文章も、また核心を鋭く見抜く焦点の深さも、彼女のこの態度から生まれた」。書評とは、須らくこうありたいものです。