ユダは裏切り者ではなく、イエスから密命を託された弟子だったのか・・・【情熱の本箱(131)】
イスカリオテのユダは、『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』『ヨセフによる福音書』――の正典4福音書では、師・イエスを裏切り、イエスを十字架に送った弟子として糾弾されている。しかし、4福音書において、ユダの「裏切り」の度合いが異なるだけでなく、それに対するイエスの対応にもかなりの差異が認められるのである。
『ユダとは誰か――原始キリスト教と「ユダの福音書」の中のユダ』(荒井献著、講談社学術文庫)には、驚くべきことが書かれている。外典の『ユダの福音書』では、ユダは裏切り者でないだけでなく、イエスから密命を託された、イエスの「十二弟子」たちを超える最も信頼されている弟子として描かれているというのだ。
『マルコによる福音書』は、紀元後70年代に、それまで言い伝えられてきたイエスの言行に関する伝承を編纂して著された史上初の福音書である。『マタイによる福音書』は、紀元後80年代に、『マルコによる福音書』とイエスの語録集(いわゆるQ文書)を用い、それに独自の伝承資料(マタイ特殊資料)を加えて編纂された福音書である。『ルカによる福音書』は、紀元後80年代に、『マルコによる福音書』とQ文書を用い、それに独自の伝承資料(ルカ特殊資料)を加えて編纂された福音書である。『ヨハネによる福音書』は、1世紀末に、『ヨハネによる福音書』に固有なイエスの奇蹟物語の背後に仮定される独自の資料(いわゆる徴<奇蹟>資料)に拠って編纂されている。
「『ユダの福音書』なるものが2世紀の中頃には存在していたことが、リヨンの司教エイレナイオスが180年頃に著した『不当にもそう呼ばれている<グノーシス>の罪状立証とその反駁』(通称『異端反駁』)によって、証しされている」。
「しかし、この(グノーシス派の一分派であるカイン派やセツ)派の人々が作り上げたと言われる『ユダの福音書』そのものの本文を、私たちはごく最近まで読むことができなかったのである。・・・この福音書が発見されたのは、実は1970年代、エジプト中部のミニヤー県においてであった。・・・『ユダの福音書』を含む一冊の写本(コーデックス)はおそらく墓地に隠されていたと想定されている」。そのコプト語本文と英訳が2006年4月に先ずインターネットで、その後、英訳が傍注と解説付きで公刊されたのである。なお、「グノーシス」とはギリシャ語で、人間の本質、すなわち人間とは何者で何に由来するかを「知ること」を意味している。
イエスがユダに託した密命、使命とは何だったのか。このことは、『ユダの福音書』でどう描かれているのだろうか。そして、イエスとユダのユニークな関係はどう記されているのだろうか。「ユダはイエスによる『告知の隠された言葉』の受け取り手とされているだけではない。ユダはイエスによって他の弟子たち『十二人』と本質的に区別されている。・・・イエスがユダに言う。<ほかの者から離れなさい。そうすれば、御国の秘密を授けよう>。・・・さらに、イエスは言う。<お前は十三番目となり、のちの世代の非難の的となり――そして彼らの上に君臨するだろう。最後の日々には、聖なる『世代』のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう。・・・だが、お前はすべての弟子たちを超える存在になるであろう。なぜなら、お前は真の私を担う人間を犠牲にするであろうから>。・・・この言葉における『真の私』とは、この『世代』に連なる人間の本質をなす『完全なる人間』のことである。そして、『真の私』=『完全なる人間』は『霊魂』であり、これに対して、この『真の私を担う人間』とは『肉体』のことなのである。このことは、次のイエスの言葉からみても明らかであろう――<あらゆる人間の世代の魂は死ぬ。しかし、これらの人々は、地上の時を終え、霊がその人たちから去る時、肉体が死ぬのであって、その魂は死なず、天へと引き上げられる>。・・・イエスは要するにここで、ユダはイエスの肉体(イエスを『担う人間』)を『犠牲に』して死に『引き渡し』、そうすることによってイエスの霊魂を『真の私』『完全なる人間』たらしめるであろう、と予告している。こうして、ユダは『すべての弟子たちを超える存在になるであろう』と言う」。
「『ユダの福音書』におけるユダ像を、次のようにまとめることができよう。成立しつつある2~3世紀の正統的教会において、金銭欲による教会の『裏切り者』『密告者』の元型にまで貶められていたユダ像は、『ユダの福音書』において180度逆転され、イエスの『福音』の伝達者として高く評価されている」。すなわち、ユダはイエスの「肉体」を犠牲にすることによって、「肉体」から「霊魂」を解放し、イエスを人間の元型たらしめたというのだ。ユダはイエスを「裏切った」のではなく、イエスの使命を果たしたというのである。
著者は、最後に、歴史上のユダについて、このように記している。「ユダはイエス側近の弟子たちの一人であった。にもかかわらず、彼はイエスをユダヤのローマ当局による十字架刑にまで至らしめた。このことの史実性は否定できないであろう。成立しつつあるキリスト教にとって、イエスを裏切ったユダは『負の遺産』であった」。「ユダはイエスの直弟子の一人であったが、何らかの理由で師をユダヤの指導者たちに『引き渡した』。ユダの裏切りを事前に知ったイエスは、『呪う』ほどに彼を憎悪した。しかしイエスは、そのような『敵』をも受容して十字架死を遂げた。復活のイエスが『十二人に現れた』という伝承から推定して、ユダがイエスの死後、直弟子たちと同じように顕現体験に与った可能性はあろう。彼の最期については不明である。イエスの死刑確定後にユダが不自然死を遂げたという伝承や、彼の死を裏切りの『罪』に対する神の裁きとみなす見解が成立したのは、成立しつつある正統的教会が、ユダの『罪』を赦さず、自らの『罪』をも彼に負わせて、彼を教会から追放しようとした結果ではないか」。
人間イエスに強い関心を抱いている私にとって、人間ユダに迫ろうと試みた本書は、見逃すことのできない一冊である。