イエスは救世主ではなく、圧政転覆を目指した革命家であった・・・【情熱の本箱(48)】
私は仏教やキリスト教に関心はあるが無神論者なので、キリスト教の創始者としての福音書の中のイエスではなく、歴史上の人物としてのイエスに強く心惹かれている。このような私が、『イエス・キリストは実在したのか?』(レザー・アスラン著、白須英子訳、文藝春秋)を読み終わるまで、興奮の坩堝に投げ込まれたのは、当然といえば当然かもしれない。
ムスリム(イスラーム教徒)の著者が、イエスに関する文献の比較や歴史的考察を踏まえて実証的に導き出した結論は、「イエスは平和的な救世主ではなく、ローマならびにローマと結託したユダヤ人特権層による圧政からユダヤ人民を解放しようとした過激な革命家だった」というものである。そして、「新約聖書は、イエスの死後、ユダヤ内外にキリスト教を広めるため、パウロたちが敢えてイエスの過激性を拭い去り、平和的な救世主像を捏造したもの」だというのだ。
「福音書の構成について最も広く認められている『二資料仮説』(イエスに関する最古の資料は『マルコによる福音書』と『Q資料』の二つとする説)によれば、マルコの物語は、イエスが死んでから約40年後の紀元70年以降に初めて書かれたとされている。マルコは、イエスの信奉者によって数十年の間にあちこちに広められていた口伝や、わずかではあるが文書化された伝承などを集めて、その中から思いのままに取捨選択した。・・・だが、マルコによる福音書は短くて、多くのキリスト教徒には物足りなかった。・・・復活した姿の記述もない。イエスは十字架に架けられ、遺体は墓に納められたが、数日後、墓は空になっていた。初期キリスト教徒でさえ、イエスの生涯と伝道奉仕について、マルコのこうしたそっけない記述だけでは不十分だと感じたであろう。そこでこの原本の改訂がマルコの後継者であるマタイとルカに委ねられた」。
「『ナザレのイエス』について信頼できる厳然たる歴史的事実は、イエスが1世紀の初めにパレスチナではよくあったユダヤ人の社会運動の一つをリードするユダヤ人であったことと、そうした行為のために、ローマ人が彼を十字架に架けたことの二つだけである。・・・歴史的営為の中から浮かび上がるイエスは、当時のユダヤ人がみなそうであったように、1世紀のパレスチナの宗教的、政治的混迷に巻き込まれずにはいられなかった一人の熱烈な革命家であって、初期キリスト教徒共同体で涵養されたような穏やかな羊飼いのイメージとは程遠い。さらに考慮に入れるべきは、十字架刑は、当時のローマ帝国が反政府的煽動罪にだけ適用していた処罰法だったことである」。これに対しては、イエスとともに十字架に架けられた両脇の二人は「強盗」だったではないかという反論があるかもしれない。彼らにはギリシャ語で「レーステース」という小板が掲げられていたが、これの実際の意味は「暴徒」で、ローマ人の通念では暴動の煽動者もしくは反徒を意味していたと、著者が説明している。
福音書の書き手たちは、なぜイエスのメッセージと運動の革命的性格をこれほど徹底的に目立たなくする必要があったのだろうか。それは、福音書が、紀元66年に起こったローマに対するユダヤ人の蜂起以後に書かれているからである。この蜂起鎮圧によって、数十万人のユダヤ人が虐殺され、残りは鎖に繋がれてエルサレムの町から外へと行進させられた。「この惨劇によってユダヤ人が受けた心の傷の深さは計り知れない。神に約束された土地から追い出された彼らは、ローマ帝国の異教徒の中で最下層民として暮らさざるをえなくなった。2世紀のユダヤ教のラビ(教師で律法学者)たちはユダヤ教を、ローマとの勝ち目のない戦争にのめり込ませたメシア(救世主)待望の過激なナショナリズムと、次第に、意図的に切り離して考えるようになった。・・・キリスト教徒もまた、エルサレムを略奪される結果を招いた革命家の熱情と距離を置く必要を感じた。その方が初期教会にとって執念深いローマ人の復讐を免れられたばかりでなく、ユダヤ教が廃れた今、教会の伝道の主要な対象はローマ人になっていたからである。こうして、長い歳月の間に、イエスは革命志向のユダヤ人ナショナリストから、現世にはなんの関心ももたない平和的な宗教指導者へと変貌していったのである」。今日、私たちが知っているキリスト教はこうして誕生したのである。こうしてユダヤ的要素を取り除いて編纂された新約聖書は、その後、ローマだけでなく、世界中で受け容れられていくのだ。
「ローマ帝国と手を結ぶユダヤの大祭司たち」、「イエスはなぜ危険視されたのか?」、「暴力革命も辞さなかった男」、「イエスの弟ヤコブが跡を継いだに見えたが・・・」、「新約聖書の大部分はパウロが書いた」、「パウロがキリスト教を世界宗教にした」と読み進むにつれて、キリスト教が発足する前のイエス、歴史上の人物としてのイエスの真実の姿が明らかになっていく。「2000年前の政治意識の強いユダヤ人革命家であったイエスは、ガリラヤの田舎を歩き回り、『神の国』(間もなく地上に樹立されるはずの、神を唯一の支配者とする国)を設立することを目標にメシアを待ち望む運動の信奉者を集め、挑発的な態度でエルサレムに入城して、臆面もなく神殿に攻撃をしかけたが失敗に終わり、ローマ人に逮捕され、暴動煽動罪で処刑された」。
本筋からはいささか離れるが、個人的にとりわけ興味深い言及が2つある。1つは、「イエスは読み書きができなかった」こと、もう1つは、「永遠の処女とされるマリアに、イエスの他にも多くの男女の子供たちがいた」ことである。
イエスは、読み書きの習慣がない社会にいたというのである。「当時、この地方(ナザレ)には大工仕事はあまりなかった。伝承によれば、イエスの職業は、大工もしくは建設労働者を意味する『テクトーン』だったという。これが事実だとすると、イエスは職人、もしくは日雇労働者だったわけで、1世紀のパレスチナの無学者の中では、貧窮者、物乞い、奴隷よりいくらかましな最下層階級に属していたのではないかと思われる。ローマ人はこの『テクトーン』という言葉を、教育のない、あるいは読み書きの習慣がない無学者を指す俗語として使っていた。イエスはその両方であった可能性がある。1世紀のパレスチナの非識字率は驚くほど高い。とりわけ貧しい階層ではそうだった。ユダヤ人小農では、ほぼ97パーセントが読み書きのできない人たちだったと推定されている。・・・イエスが何語で話していたとしても、アラム語を含むその他の言語の読み書きができなかったのは間違いない」。イエスは、こういう階層に「神の国」をもたらそうとしたのだ。
「イエスに兄弟がいたことは、彼の母マリアがカトリックの教義では永遠の処女とされているにもかかわらず、事実上、議論の余地はない。それについては、福音書にもパウロの書簡にも証言がいくつもある。イエスの死後、初期のキリスト教会の最重要リーダーになるイエスの弟ヤコブについては、ヨセフスさえも言及している。イエスには、少なくともヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の兄弟と、福音書では触れられているが残念ながら名前もわからない姉妹もいる大家族の一員だったと考えてはいけない理由は少しもない」。
本書は、実証的であるが全然堅苦しくなく、「地上における『神の国』の樹立を目指して、弟子たち軍団を集めながらガリラヤ全土を歩き回り、社会の大変革を意図していた熱烈な革命家、エルサレムの神殿の祭司階級の権威に楯突く魅力ある伝道者、ローマの占領に反抗して敗北する急進的なユダヤ人ナショナリスト」としてのイエスの面影が生き生きと甦ってくる力作である。