マリー・キュリーの苦学、恋愛、そしてラジウム発見・・・【情熱的読書人間のないしょ話(564)】
散策中、庭いじりをしている人に声をかけると、知らない同士でも話が弾みます。今日などは、これをお持ちなさいと、ある人はカキを、別の人はスダチをもぎってくれました。甥から過日、一族郎党が集まった時のスナップ写真が送られてきました。隣席の女房から紙エプロンは外したほうがと言われたのですが・・・。
閑話休題、『キュリー夫人』(エリナー・ドーリイ著、光吉夏弥訳、岩波少年文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、マリー・キュリーの次女・エーヴが書いた『キュリー夫人伝』が基になっています。
全篇、感動の連続ですが、私にとってとりわけ印象深いのは、パリの屋根裏部屋住まいの学生時代、夫となるピエールとの出会いと恋愛の時代、そして、夫の協力を得てラジウム発見に至る時代です。
「マーニャ(マリー)はいよいよ、パリへ旅立った。24歳のマーニャの目は、文字どおり、熱望と喜びに輝いていた。長いあいだ待ち望んでいた冒険が、ついにはじまったのである」。「マーニャは幸福だった。科学がたいくつだなんて、どうして思えるだろう? 宇宙の不変の法則は、なんてすばらしいんだろう。また、それを人間の頭が理解できるということは、それにもまして、なんてすばらしいんだろう、とマーニャは思った。科学は、おとぎ話よりふしぎで、冒険小説などより、もっと美しいものではなかろうか」。「マリーはまた、勉強にもどった。それは、単調な骨折り仕事ではなく、じぶんの情熱のありったけをかたむける仕事だった。このつらい(ソルボンヌ大学の)学生時代が、一生のうちで、マリーのいちばん好きだった時代だった。貧しさと孤独のなかに、若さにまかせて精いっぱい勉強したこの時代こそ、マリーのいちばんじぶんらしい時代だった。マリーは『永遠の学生』と呼ばれていた。つまり、若くて、貧しくて、知識欲に燃えていて、その上、じぶんはある偉大な目的のための天分を授けられていると信じこんでいて、なんとしてでも、それをやりとげずにはおかないといった気持ちにかられている、そうした学生のひとりだった」。
「この運命の晩、マリーと科学の話をしていたとき、ピエールは35歳だった」。「マリーは、ひかえめな態度で、この若々しい、えらい科学者にいろいろと質問し、その助言に耳をかたむけた」。「ピエールはもう一度、マリーの顔をながめ、その美しい髪や、酸性の薬剤と家事に荒れた手や、そのしとやかさや、ぜんぜん媚びるところのない――とても魅力的な、どきまぎさせるような美しさを見直した。これが、パリへ来たい一心で、何年もポーランドで勉強していた女性なのだ。そして、いまはひとり、パリの屋根裏部屋に住んで、一文なしで勉強しているのだ」。「それでも、なお10か月も、マリーはためらっていた。それから、どっちも、一生、結婚はしないとじぶんに約束していたふたりは、その大それた考えをすてて、幸福になることにきめた」。マリーが27歳の時のことでした。
「1902年、――マリーがラジウムの存在するらしいことを発表してから、3年と9か月目に、マリーは、ついにこの光を放つ未知のものを征服した。例のくずの中に星を見つけ、ラジウムを発見したのだ」。「まっくらな部屋の中には、針の先のような、小さな点々とした光が、水面に踊る青白い月光のように、片時もじっとしていないで、チカチカ光っていた。デーブルの上にも、棚の上にも、そのふしぎな神秘的な発光が見えた。ついにラジウムは、その小さなガラスの容器の中で、すがたをあらわし、闇の中に発するみずからの光によって、目に見えるようになったのである」。「ピエールとマリーは、一瞬の後悔もなく、百万長者の夢のような財産に、永久に背中を向けてしまった。ふたりのラジウムは、売り物ではなかったのだ。科学的精神がラジウムをふたりに与え、さらに世界に与えたのだった。世の中の精神がどんなに低くなろうとも、世界はなお、あらゆる知識をすべての人に無償で与える科学的精神を愛している」。
「毎年、休暇には、マリーはきらきらした無心の海と遊び、仕事のときには、ラジウムと遊んだ。そして、その放射能を呼吸し、放射能のために手に火傷をした。ほかの人たちにはかならず着けさせた鉛の楯を、おろそかにしたからだった。それは、マリーの血に、ふしぎな変化を起こさせ、フランスの名医たちをてこずらせた。医者たちが、マリーが死んだのは、その偉大な発明物のラジウムと仲よくしすぎたためだろうと推定したのは、マリーが1934年7月4日に、サンセルモスの山の中で未知の病気でなくなった、夏の日になってからのことだった」。ピエールが亡くなってから28年後のことでした。