宇宙物理学者と仏教学者の対話の結論――生きることに意味はない・・・【情熱の本箱(164)】
『真理の探究――仏教と宇宙物理学の対話』(佐々木閑・大栗博司著、幻冬舎新書)は、宇宙物理学者と仏教学者が対話するという世にも稀な一冊である。そして、驚くべきことが語られている。
驚くべきことの第1は、最先端を行く宇宙物理学者・大栗博司と、仏教の本質に鋭く迫る仏教学者・佐々木閑の両者が、「人生の目的は予め与えられているものではなく、そもそも生きることに意味はない」という結論に達していることだ。
大栗=「キリスト教は生きる意味を与えることで人間を救っているのだと思いますが、仏教にはそれがない」。
佐々木=「現在では、大栗先生のお話にもあったように、超一流の物理学者が『宇宙のことが分かるにつれて、そこには意味がないように思えてくる』と語るようになっています」。
大栗=「宇宙そのものに意味がないとすれば、生きる目的は最初から与えられているわけではありません。目的や幸福感は自分で見つけるしかないでしょう]。
驚くべきことの第2は、宇宙物理学と釈迦の仏教とは、根本的な点で共通点を有していることだ。
佐々木=「釈迦はこの世の真理を心の問題として語ったのに対して、物理学は全宇宙の問題としてそれを語ってくれます。そういう形で私たちの偏見が取り除かれていけば、その先にはこの世の本当の姿が見えてくるはず。そういう意味で、現代物理学の流れと釈迦の思想は根底のところでひとつにつながっているのではないかと私は思います]。
驚くべきことの第3は、物理学者の大栗はともかく、佐々木が仏教学者でありながら、死後の世界はないと断言していることだ。
佐々木=「私は業や輪廻という現象を信じませんから、結果として、私という存在は、『再構成の可能性を持たない、構成要素のゆるやかな集合体だ』ということになります。それはつまり、私に死後の世界はない、ということを意味します」。
この死後の世界はないという大胆な発言だけでなく、仏教の本質を衝く佐々木の釈迦論、仏教論は、多くの仏教学者とは大きく異なっており、目を瞠らされる。
佐々木=「日本の仏教はどの宗派も『大乗仏教』と呼ばれるものであり、これは釈迦がつくり上げた仏教とは根本が違います。・・・釈迦は、このように考えました。・・・苦しみから逃れるには、自力で偏見のフィルターを取り去って、世界を正しく見なければいけません]。
一方、大栗の科学、物理学の解説は、分かり易いだけでなく、最先端の成果に及んでいる。
大栗=「近代科学が明らかにしたのは、私たちが日常生活で経験するレベルの現象だけではありません。目には見えないミクロの世界の現象から、広大な宇宙の構造まで、科学は広い範囲の現象を説明することができます。・・・物理学は、「究極の理論」(自然界の森羅万象の根源を説明する理論)をつくることを、大きな目的のひとつとして発展してきました。私が取り組んでいる(一般相対性理論と量子力学を統一できる可能性を持つ)超弦理論も、それを目指す試みのひとつにほかなりません」。
本書は、誰にとっても避けることのできない死をどう捉えるか、その上で、悩み多きこの世をどう生きていくか――を考えるきっかけを与えてくれる、貴重な一冊である。