賢者は歴史に学べという教えに則った実例集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(782)】
散策中、10羽近いオナガの群れに出くわしたので、かなりの時間粘ったのですが、中途半端な写真しか撮れませんでした(涙)。カワラヒワが囀っています。アゲハチョウが飛び回っています。真っ黒なネコの眼光の鋭さにたじろいでしまいました。赤いタチアオイ、黄色いキスゲ(ユウスゲ)が咲いています。我が家では、キジバトのカップルが巣作りに励んでいます。葉が茂っているため、巣は見えません。因みに、本日の歩数は11,849でした。
閑話休題、『教養としての世界史の読み方』(本村凌二著、PHPエディターズ・グループ)は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を引いて、歴史に学ぼうと呼びかけています。
「文明はなぜ大河の畔から発祥したのか」という問いかけには、こう答えています。「(紀元前5000年頃から)アフリカや中東の乾燥化が進んでいったことで、そこに住んでいた人々が水を求め、大きな川や水の畔に集まっていきました。それがアフリカの場合はナイル川の畔であり、中東の場合はティグリス・ユーフラテス川の畔であり、インドの場合はインダス川の畔であり、中国では黄河や揚子江といった大きな川の畔だったのです。いろいろな水の畔に人が集まってくるわけですが、その中でも特に立地条件のいいところに人は集中していきます。・・・乾燥化と、それに伴う人々の水辺への集中が、なぜ文明発祥に繋がるのかというと、少ない水資源をどのようにして活用するか、ということに知恵を絞るからです。つまり、環境的に恵まれなくなったから文明が生まれた、と言っても過言ではないのです。まず、人の生存に欠かすことのできない『水』が非常に大きなファクターとなり、人口が一カ所に集中することで、それまで小さな村ぐらいでしかなかった集落が都市的な規模になる。その結果、水争いを防ぐための水活用システムが生まれ、そうしたことを記録する必要から文字が生まれたのです」。この回答は説得力があります。
「ローマは、なぜ帝国になりえたのか」というテーマが、ギリシアとローマの比較を通じて考察されています。「ギリシア人は敗戦という結果を不名誉と断じますが、ローマでは立派に戦った結果なら、生きて帰ってきたという時点で、すでに本人は充分な恥辱を受けていると考え、責めないということです。これは決定的な差です。そして、この差がどのような結果に繋がるかというと、ギリシアの敗戦将軍は死ぬまで戦うか、敗けて生き延びた場合は他国に逃げてしまいますが、ローマの敗戦将軍は、味わった恥辱を跳ね返すために次の戦いで大変な努力をするようになるのです。ローマ人たちも、そこに期待をかけ、敗戦将軍には進んで名誉回復のチャンスを与えました。・・・どんな恥辱であっても、それ以上の名誉を獲得することで、恥辱は覆すことができる、そう思えたからローマ人は執念深く物事を遂行することができ、だからこそ大帝国になり得たと言えるからです」。ローマ帝国が偉大になったのは、「寛容」の使い方がうまかったからだというのです。敗者復活戦の必要性は、私も企業人時代に痛感しました。
「なぜ人は移動するのか」というのは、現代にも通じる問題です。「人類史上最も有名な民族移動は、やはり『ゲルマン民族の大移動』だと思います。4世紀から5世紀にかけてゲルマン民族が大挙して西に移動してきたことで、ヨーロッパ世界はその姿を一変させています。では、ゲルマン民族は、なぜ西に移動してきたのでしょう。・・・4世紀頃から始まった寒冷化と、ゲルマン民族より東方に位置していた騎馬民族『フン族』が西に移動してきたことで、いわば押し出されるような形で、大挙して西ローマ帝国の領土に入ってきました。これが『ゲルマン民族の大移動』です」。
「人はなぜ唯一神を必要としたのか」は、興味深い設問です。「私は、『神々の声が聞こえなくなった』ことが、同時期に起きた一神教の登場と深く関わっているのではないかと考えています。つまり、神々の声が聞こえなくなってきたことで、人間は自ら考えて、指針を持たなければならない状況に陥ったのです。そこで人間が生きる指針としてつくり出したのが全知全能の唯一神なのではないか、ということです」。うまく説明できていますね。
中国が推し進める中華民族は虚像だと指摘しています。「中国人というのは、漢民族だと思われがちですが、純粋な漢民族はごく一部で、実際には数多くの民族の集合体だということです。かつて漢帝国を主導したのが漢民族であり、その言葉である漢語が用いた文字が漢字だったことで、中国は漢字・漢民族と言われていますが、歴代の統一王朝を見ても、純粋な意味で漢民族が主導した王朝は『前漢・後漢』ぐらいで、その後は異民族による征服王朝や、漢民族を名乗る混血王朝というのが実態です。蒙古民族の元王朝や女真族の清王朝は異民族の王朝として有名ですが、五胡十六国の多くと遼や金も異民族による王朝です。漢民族の王朝と思われている唐も、実際にはソグド人(イラン系灌漑農耕民族)など西域から入ってきた異民族が支配層に多く入り込んでいたことが最近の研究で明らかになってきています。その実態はもはや『漢民族の王朝』とは言いがたいものだったのです」。この指摘は、私にとって勉強になりました。