徳川家康に天下を取らせた家臣団の結束力・・・【情熱的読書人間のないしょ話(828)】
散策中に、薄桃色、赤紫色の花を咲かせ始めているコスモスを見つけました。オシロイバナが群生しています。オシロイバナに花弁はなく、赤紫色、赤色、黄色、薄黄色の花弁に見えるのは萼です。赤紫色のムクゲの花は妖しい魅力があります。我が家の庭の片隅では、白色、薄紫色、紫色のペチュニアが咲き競っています。因みに、本日の歩数は10,523でした。
閑話休題、『徳川軍団に学ぶ組織論』(小和田哲男監修、造事務所編著、日経ビジネス人文庫)は、徳川家康とその家臣団――武名を轟かせた猛将・本多忠勝、常に先頭に立つ切り込み隊長・井伊直政、主家を支えた大番頭・酒井忠次、軍団きっての兵法家・榊原康政、智謀で軍団を支えた本多正信、忍者集団を率いた服部正成(半蔵)――にスポットを当てています。
「戦国時代、野心に燃える大名たちの競争で最後に勝ち残った徳川家康。その要因は本人が長生きしたこともあるが、個人の能力で織田信長や豊臣秀吉に一歩およばないとみられた家康が天下を取れたのは、軍団としての強い結束力があったからである。・・・家康は家臣を大切にした。戦争での方針を話し合う場では家臣に自由な発言を許し、物事を進めるにあたっても、よく相談したという。さらに、家康は個人の資質をすばやく把握し、実務にあたらせた。トップダウンの信長や、石田三成など一部の取りまきに任せた秀吉とは、まったく異なっていたのである」。
「家康を含む徳川軍団が形成される過程を見ると、大きく3つに分かれている。第1に駿河・遠江(静岡県)を支配した今川義元の傘下にいた期間、第2に信長と同盟を結んで領土を拡大した期間、そして第3に関東に移封される前後の期間である。これが何を意味するかといえば、どん底から少しずつ力をつけてはい上がるという経験を、主君と家臣が共有したということである」。この軍団形成の3段階説、主君と家臣の経験共有説は、注目に値します。
私にとって一番興味深いのは、家康がかつての敵対勢力を積極的に自軍団に取り入れていったことです。「三河以来の武将の活躍によって領土を拡大していくなかで、家康は今川家や武田家など滅亡した大名の旧臣を積極的に受け入れていく。たとえば『徳川四天王』と呼ばれる重臣のひとりである井伊直政は、もともと今川家の配下であった井伊直親の遺児である。この直政の下に、赤備えで果敢に戦った武田の猛将・山県昌景の配下120人が配属されたことから、『井伊の赤備え』が誕生する。今川の旧臣を従えるのは領地支配を円滑に進めるにあたって最適であるし、戦国最強の呼び声も高い武田軍はそのまま使える。何より家康は三方ヶ原の戦いで大敗したこともあり、(武田)信玄の戦い方を手本としていた。武田の旧臣を積極的に引き入れれば、そのシステムも活用できるというメリットが大きい。こうした『外人部隊』ともいうべき今川・武田の旧臣を加えたことで、徳川軍団は質・量ともに増強された。さらに、古参の三河武士を慢心させず刺激を与えることもできた」。この直政こそ、おんな城主・井伊直虎に育てられた人物です。