レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ、イラクはオスマン帝国の一部だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(948)】
オオバン、オナガガモ、マガモのカップル、ハクセキレイを見つけました。マガモの雄が羽繕いに熱中しています。清掃機械の強力な風圧によって、落ち葉が舞い上がっています。因みに、本日の歩数は10,864でした。
閑話休題、厚さが5cmある600ページの『オスマン帝国の崩壊――中東における第一次世界大戦』(ユージン・ローガン著、白須英子訳、白水社)は、私たちには縁遠いオスマン帝国について、いろいろなことを教えてくれました。
本書は、歴史家ユージン・ローガンによる、オスマン帝国側から考察した第一次世界大戦を巡る、力の籠もった著作です。
「1453年、スルタン・メフメト二世がビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを征服して以後、ローマ帝国にほぼ重なり合うほど広大な版図を広げてきたオスマン帝国は、第一次大戦での敗北によってヨーロッパ列強に領土を分け取りされて崩壊し、現在のトルコ共和国のあるアナトリアとイスタンブルを残すだけになった。今日、中東での諸事件を耳にするとき、よほどの中東通でない限り、レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ、イラクが100年前までオスマン帝国という一つの国の治下にあったことを即座に思い浮かべる人は少ないのではないだろうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三大世界宗教の聖都エルサレムと、イスラームの総本山メッカがオスマン帝国の特別行政区だったことも」。
「代々メッカの太守を務めてきたハーシム家は、メディナに駐屯するトルコ軍が守ってきた。その軍司令官ファフリ・パシャは、ハーシム軍の首長フサインとその一族が第一次大戦中、スルタンを裏切って英国の口車に乗り、『アラブの反乱』の旗振りをしたことを遺憾に思い、休戦協定締結から10週間も武装解除を拒否し、最後に降伏したトルコ人将軍として名を残した」。
この「アラブの反乱」で大活躍したのが、「アラビアのロレンス」こと、T・E・ロレンスです。
「太守フサインが将来のアラブ王国にしたいと主張していた土地を、英・仏が自分たちだけで分けてしまった『サイクス・ピコ協定』を、帝国の極悪非道な裏切りと酷評する歴史家は多い。その筆頭であるパレスチナの歴史家ジョージ・アントニウスによれば、『サイクス・ピコ協定はけしからぬ文書である。この上ない強欲、つまり、疑惑を呼び、愚行につながる強欲の産物であるばかりでなく、驚くべき二枚舌の一例として異彩を放っている』という」。
「(英国の役人たちから意見を聞かれたロレンスは)アリーとファイサルに必要な金を与えて、ベドウィン兵を集めさせ、(オスマン帝国に対する)アラブの反乱はアラブ人にやらせ(『部族兵を5カ月間戦場に留め置くには、それ以外、奇跡を起こさせるものはなかったであろう』とロレンスは主張している)、英国は空軍による支援と技術的アドバイスにとどまるほうが賢明だと彼は進言した。英国軍司令官らは、アラブの反乱を戦うのはアラブ人に任せるべきだというロレンスの見解はまことに好都合で、したがって英国の関与を限定的なものにすることに同意した」。
「ハーシム家の王子(ファイサル)は、まずロレンスにアラブ服の着用を勧めた、そのほうがアラブ人戦士たちから『本当に自分たちのリーダーの一人』として扱ってもらえるし、彼のよれよれの英国軍将校の軍服が部族兵に『違和感をかき立てずに』露営地を歩き回れるというのだ。ファイサルはロレンスに、自分が叔母から結婚式の盛装用にもらった衣装を着せた」。
「こうしてハーシム家のアラビア半島での反乱と英国のパレスチナ侵攻の間に宿命的なつながりが生まれ、それが最後にはオスマン帝国を崩壊させることになるのである」。
オスマン帝国の恥部とされる、第一次世界大戦中に生じたアルメニア人虐殺問題についても、詳しく記されています。
第一次世界大戦は遠い過去の出来事のように感じられますが、現在にも大きな影響を及ぼしています。「第一次大戦が現代の中東のありように与えている影響は計り知れないほど大きい。オスマン帝国崩壊後、その領土はトルコに代わってヨーロッパ帝国主義の支配下に入れられた。400年間、オスマン人ムスリム支配下で多民族帝国としてまとまっていたアラブ人は、英国とフランスの支配下のいくつもの新しい国に組み入れられた。トルコ、イラン、サウジアラビアのように、それぞれの領域内で独立できた国もあるが、戦後処理の一環として、帝国主義大国に国境線と政治形態を押しつけられた国々もあった。・・・戦後処理の結果として引かれた国境線が、今日にまで至る驚くほど長期にわたる紛争のもとになっていることは明らかである。トルコ、イラン、イラク、シリアに分けられたクルド人は自分たちの文化的、政治的権利を求めて、過去100年にわたってそれぞれの居住国との紛争に巻き込まれた。1920年にフランスによってキリスト教国として創設されたレバノンは、やがてムスリム人口がキリスト教徒を上回るようになって、それを引き金に一連の内戦に発展した。ナショナリストたちの多くが自国の一部と思っている部分をレバノンにしてしまったことに納得できないシリアが、1976年、軍隊を派遣し、約30年にわたってこの国を占領しつづけた。イラクは、天然資源にも人材にも恵まれているにもかかわらず、第二次大戦中にクーデターと英国との紛争、1958年の革命、1980年から88年までのイランとの戦争をはじめ、1991年のサッダーム・フセインによるクウェート侵攻、2003年のアメリカの侵攻によるフセインの打倒に至るまで、この戦後領域内に平和と安定が続いたためしがない。だが、戦後の分割による遺産の最たるものであるアラブ・イスラエル紛争は、中東を戦争地帯と同義語にしてきた。イスラエルとその近隣のアラブ諸国との間で、48年、56年、67年、73年に4つの大きな戦争が起き、79年にはイスラエルとエジプト間に、94年にはイスラエルとヨルダン間に和平協定が結ばれたにもかかわらず、中東にたくさんの未解決の厄介な問題を残したまま、いまだに解決されていない。パレスチナ難民はレバノン、シリア、ヨルダンに離散したままだし、イスラエルはシリアのゴラン高原や、レバノン南部のシェバア農場を占領しつづけている。イスラエルはまた、ガザのパレスチナ人地域と西岸地区の支配をやめようとしない。イスラエルと近隣アラブ諸国との行為には双方に責任はあるものの、紛争のルーツは基本的に矛盾した『バルフォア宣言』にまでさかのぼる」。
現在の中東を理解するのに恰好な一冊です。