西郷隆盛の敵役・島津久光の立場から辿る幕末、明治維新・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1020)】
散策中に、10m先のキジをカメラに収めることができました。3mの距離までツグミに近づくことができました。周りの緑に溶け込んでいる2.5m先のメジロを危うく見逃すところでした。因みに、本日の歩数は10,407でした。
閑話休題、『島津久光の明治維新――西郷隆盛の<敵>であり続けた男の真実』(安藤優一郎著、イースト・プレス)は、西郷隆盛の敵役である島津久光の立場から幕末、明治維新を辿っています。
私には意外と思われることが、3つ記されています。
第1は、藩主の座を争った異母兄弟の島津斉彬と久光の仲が悪くはなかったということ。「斉彬と久光は藩主の座をめぐって争う形となったが、二人の関係は良好だった。斉彬は久光の学識を高く評価し、自分などは遠く及ばないと絶賛したほどである。政治向きのことも相談し、非常に頼りにしている。久光にしても、斉彬の遺志を実現することを志すようになる」。
第2は、久光が腹心の部下・大久保利通に怒りを爆発させたことがあるということ。「(1870<明治3>年1月)24日の会見では、久光は西郷が進める藩政改革への不満を爆発させ、かつての腹心だった大久保を激しい言葉で詰る。この日、帰宅した大久保は酩酊したという。26日、久光の説得を断念した大久保は東京への帰途に就く。参議として解決しなければならない政策課題が山積みで、いつまでも鹿児島に滞在するわけにはいかなかった。久光は西郷への不満を募らせており、大久保はその逆鱗に触れてしまった格好だ」。
第3は、薩摩藩内は討幕で意見が一致していたわけではなく、西郷らの討幕勢力は少数派であったということ。「薩摩藩というと、西郷をリーダーに藩士が一丸となって討幕運動を展開したと思われがちだが、実際は全く違う。討幕には否定的な意見が藩内の大勢を占めていた」。この否定勢力の中心には久光がいたのです。