情報隠蔽を見抜き、実態を暴露する具体的な方法を、松本清張に学ぼう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1102)】
東京・杉並の永福を巡る散歩会に参加しました。永福稲荷神社、永福寺、栖岸院、永昌寺は新緑に包まれています。永福寺脇に安置されている石塔3基の真ん中は、正保3(1646)年銘の五輪庚申供養塔ですが、五輪の庚申塔というのは珍しいそうです。築地本願寺和田堀廟所の親鸞像は精悍な風貌が印象的です。玉川上水が京王井の頭戦と交差する地点では、玉川上水が線路を跨ぐ形になっており、地上に巨大な鋼管が露出しています。その真下に、世界恐慌の影響で計画が頓挫し、幻に終わった山手急行線の遺構(線路の左側)が残されています。因みに、本日の歩数は19,865でした。
閑話休題、『松本清張 「隠蔽と暴露」の作家』(高橋敏夫著、集英社新書)には、陰鬱な雰囲気が広がりつつある現状に対する危機感が漲っています。「戦後70年に区切りをつけたかのように、長い『戦後』から『新たな戦前』へと急転回し、社会のそこここに危うく不可解な薄暗がりがひろがりつつあるこの時代、そして政治、社会、国家のそこここに情報隠蔽と実態隠蔽が暗く大きな穴をうがつ陰鬱なこの時代は、今、松本清張の試みと方法とを切実に求めている――。わたしは、そう思わないわけにはいかない」。
「秘密すなわち隠されたもの、不可視されたものは、ただたんに見えなくなったものではない。そこには隠そうとする力、隠蔽の力が幾重にもおりかさなる。秘密があり次に隠蔽がくるのではなく、隠蔽こそが秘密をうみだす、といってもよい。・・・さまざまな形であらわれる隠蔽の力に抗しつつ、見えなくされた出来事へ、謎の真相へと少しずつ、少しずつ接近する松本清張の暴露の実践は、じつに執拗をきわめた。巨大な組織によって隠蔽された、告発し否定すべき実態を暴露し、露顕させて批判する。それだけではない。さまざまな組織、社会システム、あるいは社会的な偏見、蔑視、差別によって隠されてしまった、見えなくされてしまった肯定すべき存在を明るみにだすのもまた、暴露すなわち顕在化の役目である」。
清張の代表的な作品をとおして、隠蔽、秘密を見抜き、暴露する具体的な方法を学ぼうというのです。
生活史に根差す清張の特色が挙げられています。①社会の「最下層」(『半生の記』)からやって来た作家であること、②清張が自己を形成したのが、芥川龍之介が自殺し、政治変革、社会変革を目指すプロレタリア文学が登場した時代であったこと、③学歴や職種で差別される側にいたこと、④上の学校に行けなかった清張は、関心を「未来」にではなく、「過去」へと向けざるを得なかったこと、⑤皇軍兵士としての体験があること――の5つです。「これら生活史上のネガティブな体験は、わたしたちの多くがそんな暗い体験につながれたままになるのにたいし、一つひとつに積極的な意味をみいだし、次のステップへ挑む流儀を生活者松本清張の中に確立させた。それが後の作家松本清張をうみだし、『隠蔽と暴露』の方法をうみだしたのである」。
隠蔽する力、戦争に抗う試みが、『球形の荒野』、『半生の記』、『黒地の絵』で考察されています。
隠蔽する力、明るい戦後に抗う試みが、『ゼロの焦点』、『砂の器』、『顔』で考察されています。
隠蔽する力、政界、官界、経済界に抗う試みが、『点と線』、『けものみち』、『黒革の手帖』で考察されています。
隠蔽する力、普通の日常、勝者の歴史に抗う試みが、『或る「小倉日記」伝』、『父系の指』、『無宿人別帳』で考察されています。
隠蔽する力、暗い恋愛に抗う試みが、『天城越え』、『波の塔』、『強き蟻』で考察されています。
隠蔽する力、オキュパイドジャパン(占領下日本)に抗う試みが、『小説帝銀事件』、『日本の黒い霧』、『深層海流』で考察されています。
隠蔽する力、神々に抗う試みが、『黒い福音』、『昭和史発掘』、『神々の乱心』で考察されています。
隠蔽する力、原水爆、原子力発電所に抗う試みが、『神と野獣の日』、『松本清張カメラ紀行』、『幻の作品』で考察されています。
本書の中で、とりわけ私の心に突き刺さったのは、このエピソードです。「朝日新聞社の広告部で図案書きをしていた戦中、机を隣りあわせた校正係主任の浅野隆の影響で、考古学に関心をもち北九州の遺跡を歩きまわったり、奈良や京都に出かけたりしていた。あるとき、大阪から転勤してきた東京商大(現一橋大学)出の社員が言った。『君、そんなことをしてなんの役に立つんや? もっと建設的なことをやったらどないや』。会社では大学出として出世の約束されたこの社員の言う『役に立つ』や『建設的』が、自分にはあてはまらないのを知っていた松本清張にとって、考古学への関心はまず、現在から未来にのびる『建設的』や『役に立つ』を認めない姿勢のあらわれであった。だが、会社内の『普通の日常』に背くそんな行為が、自分にとって何をもたらすのか。『普通の日常』にはいれぬ者のたんなる悪あがきにすぎないのではあるまいか。こんな問いを、小説を書きはじめたばかりの松本清張はひきずりつつ、それに小説を書くという作業をとおしてこたえてみたい、というささやかな野心をいだいていたはずである」。胸が熱くなりました。