シェイクスピアの遺言書の謎・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1173)】
シャチホコガ科のガが見事に木肌に擬態しています。ヤブカンゾウが鮮やかな橙色の花を咲かせています。オニユリが赤褐色の「むかご」(脇芽が養分を蓄えて球状に肥大したもの)をたくさん付けています。舌状花が薄黄色のヒマワリを見つけました。濃黄色のヒマワリと比べると、色の薄さがよく分かります。因みに、本日の歩数は11,508でした。
閑話休題、『シェイクスピアの遺言書』(梅宮創造著、王国社)では、ウィリアム・シェイクスピアのさまざまな作品に登場する遺言書の考察が展開されていますが、やはり、シェイクスピア本人の遺言書の謎解きが一番の目玉です。
「1616年4月25日、シェイクスピアは故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンの地に埋葬された。これは埋葬登録名簿が残されているので事実である。亡くなったのはいつか? それについては、正確な日時がわからない。おそらく同月の22日か23日あたりだろうということになっている」。
遺言書は1616年1月に書かれ、死去する1カ月前の3月に書き換えられています。文言改変があまりにも多いこと、しかも、それが重要事項に触れた改変であることから、書き換えまでの2カ月間に何かあったに違いないと、著者は睨んでいるのです。
著者が注目したのは、1月にはその名がなかったのに、ジョン・ヘミングズ、リチャード・バーベイジ、ヘンリー・コンデルの3人に、それぞれ指輪代として26シリング8ペンスを贈ると、行間に書き加えられていることです。死期が迫ったシェイクスピアに、3人が『シェイクスピア戯曲全集』の刊行を強く勧め、その事業を3人に委託したシェイクスピアが、その苦労代として書き込んだのだろうと、著者は推考しています。「もしヘミングズとコンデルの努力がなかったなら、(36篇のうちの)17篇のシェイクスピア戯曲は闇にうもれたまま、おそらく永久にわれわれの目に触れることがなかっただろう。1623年の『シェイクスピア戯曲全集』刊行がどれほど偉大な事業であったか、これはいくら強調しても足りるものではない」。何ということでしょう、ひょっとしたら、私たちはシェイクスピアの『マクベス』、『テンペスト』、『十二夜』、『アントニーとクレオパトラ』を読むことができなかったかもしれないのです。
著者が次に注目したのは、8歳年上の妻に関するものです。「妻には2番目に上等なベッドを付属品とともに贈るとしているのだが、最後になってようやく妻への贈与に言及するというのはいかがなものか。しかもこの件は3月(憶測)になって行間に追加された。これはやはり、妻との関係が芳しくなかったことの証拠とも読める。もちろん、事実はどうであったかわからない」。
「遺言書一つが、さまざまな意味を内包しながら、暗黙のうちにわれわれに多くのことを伝えてくる。誰に何を、いくら贈ったかというような直接の情報以外にも、その裏にひそむ互いの人間関係や、移ろいゆく日々の感情や、苦悩や、生活面のもろもろが行間にひっそりと沈んでいる。最晩年のシェイクスピアの生々しい声が、遺言書の底から聞こえてくるではないか」。まさに、そのとおりです。
「遺言書によれば、(町で2番目に大きい)ニュープレイスの屋敷は長女スザンナに譲渡された。なぜ妻のアンをとび越して娘なのか、と不振に思う人も少なくないだろうが、アンは事実、シェイクスピアの死後ずっとニュープレイスの家に住まい、娘夫婦や親戚らと親しく交わりながら寡婦の日々を送ったようだ。アンとしては、それだけで不満がなかったのかもしれない。そうして7年遅れに主人のあとを追い、ホーリー・トリニティー教会の内陣へ、主人の隣へと葬られたのである。そのあたりを切り取って考えるなら、アンは当家にあって、それほど冷遇されたわけでもなかったように思われるが、果たしてどうなのだろうか。アンについての真相はよくわからない」。この著者の正直な姿勢には、好感が持てます。
「シェイクスピアの遺言書はどう見ても中流紳士の域を出るものではなく、こういってよければ、田舎町のやや暮し向きのいい旦那の最期を暗示する書き物である。しかし、そうはいうものの、この遺言書はシェイクスピア晩年の資産状況を立証する唯一の文書として、詩人の実生活の断片を垣間見せてくれる貴重な資料であることはまちがいない」。
このように遺言書や埋葬登録名簿が残されている以上、シェイクスピア非実在説、シェイクスピア別人説は成り立ち得ないことがはっきりしてよかった、というのが私の正直な読後感です。