榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

明治維新の最大の功労者は誰か、その後の軍事国家化の張本人は誰か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1188)】

【amazon 『明治維新とは何だったのか――西洋史から考える』 カスタマーレビュー 2018年7月24日】 情熱的読書人間のないしょ話(1188)

あちこちで、さまざまな色合いのハイビスカスが咲き競っています。キダチアロエが橙色の花を付けています。我が家の庭の樹上の巣や、その近くで、キジバトの幼鳥たちがしょっちゅう口を開け、喉を震わせています。因みに、本日の歩数は10,128でした。

閑話休題、『明治維新とは何だったのか――世界史から考える』(半藤一利・出口治明著、祥伝社)は、歴史に一家言を持つ半藤一利と出口治明の対談集だけに、なかなか読み応えがあります。

幕末から明治維新にかけての日本にとって一番重要な働きをしたのは、老中・阿部正弘だと、その先見性と開明性が高く評価されています。「●半藤=私は、阿部伊勢守正弘という35歳の若い老中が非常に開明的な人物で、彼がいち早く開国を決意したと思いますね。●出口=そうですね。僕もそう思います。老中首座という立場は、今でいえば首相に当たると思うのですが、阿部正弘は、『(ペリーが)来てしまったらジタバタしてもしようがない』と腹をくくったのではないでしょうか。相当、腹の据わった人物だったのでしょう。すでにペリーが来た時点で、『開国』して産業を興し、交易を行なって『富国』を実現し、そのお金で『強兵』を養う。この3つの柱でこの国を立て直すしかない、と覚悟を決めたような感じがします。その後のいわゆる安政の改革で、勝海舟、大久保忠寛、高島秋帆などの開明派を登用して、講武所(陸軍の前身)、長崎海軍伝習所(海軍の前身)、蕃書調所(開成所を経て東京大学に繋がる)などを矢継ぎ早に創っているからです。明治維新の『開国』『富国』『強兵』というグランドデザインを描き、そのための準備に着手した阿部正弘は、明治維新の最大の功労者のひとりではないでしょうか。200年以上も続いた幕府伝統の海禁政策(鎖国)を、開国に持っていくだけでも大変なエネルギーを要したと思います。正反対の政策ですからね。●半藤=だから私も、阿部さんがもっと長く生きていたら、幕末はずいぶん違う流れになっただろうと思います、この人が(37歳で)早く死んじゃったんで、幕末のゴタゴタがよりおかしくなっちゃうんですよ」。この指摘には、目から鱗が落ちました。

阿部の基本方針を受け継いだ人物として、勝と大久保利通がクロース・アップされています。「●半藤=日本が近代化に向かうに際して、いちばん最初に『日本人』として開明的な考え方を持った人物が勝海舟だと私は思います。それまでの人々は『薩摩人』とか『長岡人』とか『会津人』という自覚はあったけれど、『日本人』という自覚はなかったでしょう。そういう社会で、いちばん最初に『日本人』という自覚を持てたのは凄いことです」。「●出口=新しい近代国家をつくる上では、阿部正弘やその理念を体現した勝海舟の貢献度がものすごく大きいと思います。実際に歴史を動かした人物に、もっと光を当ててもらいたい」。

勝の弟子・坂本龍馬は、プロデューサー力、行動力において傑出していました。「●半藤=龍馬が幕末のヒーローのひとりであることは間違いありません。慶応3(1867)年に京都の近江屋で殺害されるまでのほんの5年のあいだに、まさに超人的な行動力を見せたと思います。ただし、薩長同盟にしろ船中八策にしろ、坂本龍馬自身の発想したものではありません。ほかの人のアイデアをそっくりそのままいただいているだけで。●出口=阿部正弘のようにみずから大きなビジョンを描ける人ではないですよね。●半藤=はい。しかし、アイデアはない代わりに、人が考えた良いアイデアを実現させるための斡旋をやらせたら天下一品。●出口=いわばプロデューサー的な役割ですね」。「●半藤=あちこちから聞いたアイデアをまとめた龍馬の知恵は、大変なものだと思います。他人のアイデアを自分のものにしている。ここまでちゃんとした国家の設計図を描けた人は、当時あまりいなかったのではないでしょうか」。

大久保は、グランド・デザイナーとして日本の近代化に必須の人物と認定されています。「●出口=(岩倉)使節団を実質的に立案したのは、おそらく大久保利通ですよね。あのとき大久保の頭にあったのは、『攘夷』の問題だと思います。『尊皇攘夷』を『尊皇倒幕』に切り替えて革命を成就させたとはいえ、まだ攘夷の精神は残っていたでしょうからね。●半藤=そうです。『攘夷をするための開国』でしたから、攘夷は消えていないんですよね。●出口=新しい国家を築く上で殖産興業による『富国』を優先したい大久保としては、攘夷の気運を消さなければいけなかった。そのためにいちばん手っ取り早いのは、欧米列強の実態をみんなに見せることです。あれだけの要人たちを長期にわたって外国に渡らせれば、留守のあいだに国内の政治が混乱するのはわかっていたでしょうが、それでも構わないと割り切って断行した。でも、そういう犠牲を払ってでも、大久保は人心を一新したかったのでしょうね。もともと阿部正弘が考えていた開国・富国・強兵というプランを薩長政権で実行するには、みんなを無理やりにでも外国に連れていって『現時点の国力では攘夷は不可能』と洗脳する必要があったのではないでしょうか」。

「●出口=最初に見取り図を描いたのは阿部正弘で、それを上手に肉付けしたのが大久保利通だと考えていいですよね」。「●出口=ものすごく荒っぽくいってしまえば、明治維新は大久保利通の作品ですよね。●半藤=そうですね。少なくとも明治新政府は大久保の作品です。あのまま大久保中心の政権が続いていたら、どんな国家になったか。山縣有朋の出番はないでしょうから、軍事国家にはならなかったかもしれません」。「●出口=やはり大久保さんは珍しいタイプです。頭が良くて、汚いこともできて、腹も据わっている」。

現実主義者・大久保と理想主義者・西郷隆盛とが比較考察されています。「●半藤=出口さんは、どちらがお好きですか。●出口=僕は保守主義者でリアリズムのほうが性に合っていますので、日本という国のためには、毛沢東的な西郷が早い段階で中央政府からいなくなって、(周恩来や)鄧小平的な大久保が権力を握ったことが結果的には良かったと思っています。それによって国作りは間違いなく速く進んだのではないでしょうか。●半藤=私も正直なところ、そう思いますね。毛沢東の西郷が中心になっていたら、いつまでたっても革命のガタガタが終わらなかったでしょう。・・・もっとも、西郷さんがいなくなった後、大久保も翌年に殺されちゃったので、結局はまたゴタゴタが始まったわけですけどね。あそこで大久保利通が暗殺されず、もう少し長生きしていたら、日本はもっと早く近代国家になったでしょう」。

「●半藤=岩倉使節団が出発したのは明治4年の11月ですが、その少し前の7月に、明治政府は廃藩置県を行ないました。それまでの藩を潰して大名を全否定する大改革ですから、並大抵の仕事ではありませんよ。これは西郷隆盛という大物を引っ張り出したからこそできたことです。その後、岩倉使節団が出発してからは、新橋から横浜までの鉄道開業、太陽暦の採用、徴兵令などが続きます。さらに、政府への旧幕府の(勝、榎本武揚などの)人材登用も西郷さんがどしどしやりました」。

大久保暗殺後に権力を掌握したのが、大久保にすり寄っていた伊藤博文と、西郷の威光を受け継いだ山縣有朋です。伊藤と山縣は、先輩の西郷・大久保・木戸孝允に比べると小物だが、小物ゆえに、その正統性をアピールするために吉田松陰を持ち上げ、松下村塾の出身者であることを喧伝したというのです。さらに、山縣は、己の権力保持のために、シビリアン・コントロールを外して、日本を軍事国家化したと厳しく糾弾されています。「●出口=伊藤は大した力量がなかったからこそ、大久保が生前に考えていたことをそのまま忠実に実行していったのではないでしょうか。伊藤は、亡き大久保が描いた夢を思い出しながらひとつずつ実現していったのだと思います。●半藤=伊藤博文には坂本龍馬的なところがありますからね。自分には新しいアイデアはないけれど、人の考えたことを実行する能力は高かったのでしょう。折衝の能力もあった。だから一応は大久保の描いた設計図を思い出しながらやっていったのだと思います」。

「●半藤=伊藤が大久保の後継者だとすれば、山縣有朋のほうは武人ですから西郷の後継者ということになるのですが、西郷ほど優れた人格を持っているわけじゃないので、とんでもない軍事国家を作ってしまいました」。「●半藤=彼(山縣)が、大久保の設計図よりも先に、自分の思い描いた軍事国家を作ってしまったんです。これが近代日本の不幸の始まりなんですよ」。

「●半藤=残された伊藤や山縣は、急に天下を取ってしまったものだから、自分たちの権力を正当化するために『明治維新』なる言葉を探してきました。吉田松陰という、私にいわせれば大したことのない人物を称揚するようになったのも、長州閥の自分たちを権威づけるためですよ。●出口=なるほど、松陰はそこで理想化されたわけですか。大久保という後ろ盾を失ったので、吉田松陰の威光にすがったということでしょうか。●半藤=そのとおりです。伊藤も山縣もそのままでは誰も信用しないから(笑)、『われわれは松陰先生の門下生である』というわけですね。松陰の下で何をしたのかといいたくなるぐらいの話ですが、まあ一応は門下生ではあるのでしょう。そうやって都合の良いストーリーをこしらえて、正統性を完成させ、天下を取ったんです。・・・(膨張主義・侵略主義の)危険な思想家を、伊藤と山縣がうまく使った結果、いつの間にか日本でも最大級の思想家のようになってしまいました」。半藤の言は、松陰に対して、いささか辛辣過ぎますね。