苦境を乗り越えるヒントが鏤められている小説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1225)】
気がついたら、ツバメシジミの撮影に1時間近くもかかっていました。翅を広げると雄か雌かが分かるのだが、なかなか開いてくれないからです。この個体は、翅表が黒っぽい雌でした。ヤマトシジミも雌でした。キタキチョウ、サトキマダラヒカゲも見かけました。チョウを撮るのに夢中になっていたら、胡散臭い奴だと言わんばかりに、セグロアシナガバチが私の周りをしつこく飛び回っているではありませんか。因みに、本日の歩数は10,962でした。
閑話休題、『手のひらの音符』(藤岡陽子著、新潮文庫)は、一言で言えば、苦境を乗り越えるヒントが鏤められている、頼りがいのある小説です。
社長から突然、事業撤退を伝えられ途方に暮れる45歳・独身の服飾デザイナー、瀬尾水樹が主人公だが、彼女を巡る人物たちも、皆、恵まれない環境に置かれています。物語は、現在と過去――小学校時代、中学校時代、高校時代、専門学校時代、これまでの社員生活――の思い出を行ったり来たりするのだが、いずれの登場人物も、決して幸せではないのです。
高校3年の時、同じクラスの黒岡という女子生徒と水樹は苛めに遭います。「学校で、誰かに嫌われることがこんなに辛いということを、自分はこの歳になるまで知らなかった。誰かの悪意を一身に受けることで全神経は消耗し、学校生活を楽しむ余裕がなくなってしまうことを、知らなかった。・・・教室の中で泣き出さないようにすることだけで、精一杯なのだ。意地悪な物言いや、歪んだ笑みを無視するだけで、こんなにも疲弊してしまうのだということを、自分は知らなかった」。
水樹が高校3年に進級する直前、父は愛人を作り家を出てしまいます。
団地の同じ棟に住んでいた関係で、幼い時から高校を卒業するまで親しかった森嶋信也の場合は、競輪選手だった父が若くして肝硬変で死んでしまいます。さらに、小学4年の時、慕っていた兄を交通事故で失います。母子家庭を支えていた母は勤務先の社長の愛人に収まり、子供たちをあまり顧みません。従って、発達障害の弟の面倒は信也が見なければなりません。
高校の同級生・堂林憲吾は成績優秀だが、父が仕事にかまけて、精神疾患の母の世話を10歳の憲吾に任せっ切りにしため、これ以降、憲吾は自分の時間を持つことができません。
苦境を乗り越えるヒントを見ていきましょう。
信也の兄・正浩の言葉。「人によって、闘い方はそれぞれ違うんや。だから、自分の闘い方を探して実行したらええねん」。
信也の言葉。「どんなに遅れてもいいから全力で走ってこい。半周遅れでも一周遅れでもいい。必死に走ってきてバトンを渡せ。そうしたら自分も全力で走れるから。リレーってそういうもんじゃないか。バトンを渡した先に何があるかはわからない、諦めるな。受け取る側にとっては、バトンをもらう時の順位よりも、どんな気持ちでそのバトンが渡されたか、そのほうが重要なんだ」。
憲吾の言葉。「たとえばいま全力で何かをやって、それがことごとく失敗したとしても、次の世代を走る人には自分たちが見せる全力疾走が残るんじゃないだろうか。何とかしようとあがいている姿を見ていた、もっと若い誰かが、自分たちよりうまく賢いやり方で何かを成功させたなら、それはおれたちの成功ではないだろうか」。
高校卒業時、母子家庭で貧しいため、就職しか考えていなかった水樹に服飾関係の短大か専門学校への進学を勧めてくれた担任の先生・上田遠子の言葉。「あなたは美術の作品ひとつにしても、丁寧に、集中力を持って、全力で仕上げてくるから、物を作ることに対する誠実さと執着、そういうものを感じるの。だからまだ社会に出ずに勉強してみたらどうかと思うのよ」。「今、あなたの未来を安易に考えないでもらいたいの」。
遠子の憲吾への言葉。「何にも縛られずに自由な発想で、自分が一番望むことに時間を注いでみるのよ」。
水樹の決意。「できることがあるなら、それをすべてやってみよう。春までが期限だというなら、そこまでは頑張ってみよう。これまでやってきたことを中途半端に手放す辛さより、春以降の苦労のほうがまだ耐えられる」。
水樹が愛した男性は・・・。
遠子の水樹への言葉。「本当の自分を出せる相手に巡り逢えたらそれだけでもう幸せなのよ」。「だから瀬尾さんも、自分の本当の気持ちを大切にすること」。
水樹の気づき。「独りで生きるのは平気だけれど、時々はだれかと触れ合いたいと思った。同じ景色を見て、一緒に笑ったり泣いたり、幸せを感じたり。手を握り、体の重みを感じたかった。でもそのだれかはあなたしか考えられなくて、不器用で救いようがないと思いながら、自分らしいと思って生きてきた」。
信也が愛した女性は・・・。
そして、憲吾が愛した女性は・・・。
辛くとも、諦めずに頑張ろうという気にさせてくれる作品です。