池澤夏樹と鹿島茂が若い人に薦める『若き日の詩人たちの肖像』を読んでみた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1333)】
地元の我が家からの最寄り駅もイルミネーションが点灯しています。因みに、本日の歩数は10,299でした。
閑話休題、『近現代作家集(Ⅰ)』(池澤夏樹編、河出書房新社・池澤夏樹個人編集 日本文学全集)に収録されている『若き日の詩人たちの肖像(抄)』を読みました。『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(池澤夏樹・吉岡忍・鹿島茂・大高保二郎・宮崎駿著、高志の国文学館編、集英社新書)で、池澤夏樹と鹿島茂が、若い人たちに『若き日の詩人たちの肖像』を読むよう強く薦めているからです(私は若くはありませんが)。
池澤は、「『若き日の詩人たちの肖像』は彼が50歳の時に完成した回想的な小説で、二・二六事件の頃に高岡から金沢に出、さらに東京に移ってからの若い日々が懸かれるが、タイトルのとおり登場人物が多い。いわば群像による時代相の再現で、左翼と文学と音楽の人脈の中で世界を発見してゆく主人公の姿が好ましい。大きな画面の中に自分を小さめに描くところにこの作家の社会性がある」、「堀田善衞(の作品)では自分はずっと後ろに下がって社会を観察するカメラになっている。常に客観の視点を保持するこの人の書くものはルポルタージュ性が濃く、自然主義とは無縁である」と解説しています。私小説のように見えて、その枠を大きく超えた作品だというのです。
「中学生としての男は、文学少年といったものではなかった。むしろ音楽少年といったものであったかもしれない。北陸の、古い町である金沢で男は中学生の頃をすごした。そうして一九三六年(昭和十一年)の二月二十五日の朝、東京のK大学予科の試験をうけるために上京し、上野駅についた」。
「兄は帰らなかったのではなくて、友人宅へ麻雀をしに行って、すでに二月二十六日の午前に入っていて、実は帰れなかったのであった。後日二・二六事件と呼ばれる、軍隊の叛乱が起っていたのである。しかしこの雪の日に、下宿にとじこもって受験勉強をしていた少年は、夕方近くまで何事も知らなかった」。
「下宿屋の一室にこもって受験勉強をつづけているものにとって、一日のおわりというものは別して区切りとはならない。だからまる一日をあいだにおいているとはいうものの、少年にとっては、すぐ近くの軍人会館が戒厳令司令部になったということは、昨夜あそこで(ラヴェルの)ボレロと(ベートーヴェンの)第五交響楽を聴いたというのに、一夜あけてたちまち、まさにその同一の建物が、戒厳令とかいう天皇の命令を執行する血に染んだものになったということである」。
「不気味なほど物音のない、あたり一帯の空屋の群れのどまん中にいてのこの深夜が、少年に深い印象を与えた。他人には恥ずかしくて言えないほどの、(音楽を聴きながらひとりでに射精してしまったほど)生理的なまで溺れ込むことの出来た音楽が奏でられたその同じ場所が、一夜あけてみれば戒厳司令部という、怖ろしげなものにかわっている。その二つを、少年はつなげて考えることが出来なかった」。
「まだずっと幼かった頃に、犬養木堂や永井柳太郎や清浦奎吾などの政治家や将官級の軍人などが少年の(代々、廻船問屋を営んできた)家を訪ねて来て、広間で宴会が行われた。町じゅうの芸者が家へ手伝いに来たりして、政治家や軍人というものは物要りなものであった。しかもこれらの著名な政治家や軍人たちは、少年の家ではいささかも尊敬などされていなかった。むしろ旅の俳諧師や絵師、能楽師や盆景の師匠、道具屋などの方が大切にされていた。彼らは短くて一ト月、長ければ一年ほども、のんびりと少年の家の離れで、祖父の相手をして茶などをたて、無為の日々を送っていたものである。彼らは女中たちと恋仲になったり、子を生ませたり、あるいはつれそって旅廻りに出て行ったりもしたものであった。後日、少年がメーリケの『旅行くモーツアルト』やカサノヴァの回想録を読んでみたとき、いささかも珍しく思わず、おどろきもしなかった。旅行くモーツアルトは、旅の箏曲の師匠のようなものであり、カサノヴァは旅を行くはなし家のようなものであった」。この場面は、当時の地方の素封家のあり様を彷彿とさせます。
「故郷の港町での、ある芸者の口許を少年に思い出させた。その若い芸者は、父のなじみであったが、少年を呼び込んで寝るについて、『さ、関係しましょう』と言ったものだった。それが少年にとってのはじめての経験であった」。
「女は女で妙な具合に頤(あご)をつき出して男と話をしている。どうして女は頤をひかないのか。女は頤をひかないと眼から光りが失せるものであること、そうしないと眼の黒玉が力あるものとして、女の顔の美を一点にしめるものとして相手に印象づけられないものであるという、芸者ならば必ず心得ている筈の、この女の作法のいろはをどういうわけでいったい、こいつらは知らないのであろう、この東京の田舎者どもめ、と思うと、着ている衣裳の派手やかさなどもたちまち剥ぎとられてしまい、そういう者どものなかにいて、おれまでがああなったのではおしまいだ、と思わざるをえない」。
池澤と鹿島が強く薦めるのも尤もだと納得しました。