本書のおかげで、フランスとイングランドの歴史上の関係がすっきりと理解できた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1359)】
シジュウカラ、ヒヨドリ、マガモの雄、オナガガモの雄、オナガガモの雌、ダイサギをカメラに収めました。ソシンロウバイを写していたら、その家の女性から、お花をお持ちになりませんか、と声をかけられました。因みに、本日の歩数は10,482でした。
閑話休題、奥本大三郎に「『フランス三昧』は新書だけど、教わるところがいっぱいあった。学生時代にああいう講義を受けたかったね」と言わしめた『フランス三昧』(篠沢秀夫著、中公新書)を手にしました。
「血族という意味では誰がフランク人なのか。王家はそうかも知れない。だがフランク族もほかのゲルマン人も、女性を大勢連れて移動して来たわけではない。ケルト人の血の中に飲み込まれたのが現実である。そのことが科学的に証明され、フランス人の根幹はずっとガリア人、つまりケルト人であることが一般に知られるようになるのは、なんと19世紀末である。1000年にわたって、フランス人は皆が自分はフランク族と思いこんだ。名前もゲルマン風が流行った。アンリ(英語形ヘンリー、ドイツ語形ハインリッヒ)、ギョーム(ウィリアム、ヴィルヘルム)という具合だ」。「19世紀末まで(一部では今でも)ジュリアス・シーザーのローマ軍に追われたケルト人がブルターニュに逃げこんだと思われていたのである。ガリアのケルト人は実はどこへも行かなかった。ずっとガリアにいる。それが今のフランス人の根幹だ」。
「ローマは1世紀からブリタニアを治めていたが、現地のケルト人(ブリトン人と呼ばれていた)との接触が少なかったのか、ブリタニアのケルト人はラテン語に同化せず、ケルト語を話し続けていた。衰退したローマ帝国は407年、ローマ軍をブリタニアから撤退させた。ガリアに進入した『蛮族』と戦うため、と歴史の本にはあるが、ローマ軍の去ったあとのブリタニアには同じ『蛮族』であるゲルマン人のサクソン族とアングロ族が今の北ドイツから進入するのだから、あまり意味がない。この2つの部族はここで混じってしまったのか、このあとは今日にいたるまでアングロ・サクソン人と呼ばれる。5世紀の間にすっかりブリタニアの平野部分を押さえ、伝説的なケルト人の首領アーサー王(フランス語形アルチュール)を敗退させる。以後ロンドンを中心とする地方をアングルランド(フランス語形アングルテール)、それが訛ってイングランドと称する。これがアングロ・サクソンの王国として育つ」。
「島の北部スコットランドにはスコット族などと混じっているがケルト人が住み続ける。西部のウェイルズ、西南部のコーンウォールも同じだ。いずれも中世からイングランド王国の支配を受け、英語が支配者の言語で、ケルト語は地方語となり、18世紀にコーンウォールでは絶滅したが、スコットランドのゲール語、ウェイルズのウェリッシュ語として健在だ。・・・アイルランドはもっと古い別系統のケルト人が住み、ローマの支配は経験しなかったが、中世からイングランド王国に支配され、20世紀、日本の大正から昭和初期に猛烈な独立戦争を戦って、今やアイルランド共和国。ケルト人唯一の独立国だ。バンザイ! だが北アイルランドだけは18世紀からやたらにアングロ・サクソン人(プロテスタント)が移住して、多数派で裕福で、主権はイングランドに帰属したままだ。そこで貧しいケルト人(カトリック)が独立(つまりアイルランド共和国への帰属)を求め、1960年代から武力抗争を繰り返している」。
「おお、英国史をやっているわけではない。しかし我らのフランスと関係するのでここまで語った」と、著者が言い訳がましく述べています。
「『ブリタニア』(ブルターニュ)のブリトン人、つまりケルト人が5世紀に海を越えて、ガロ・ロマン時代『アルモリカ』(フランス語でアルモリック)と呼ばれた半島地方に移住した。それでここは『小ブリタニア』(プチット・ブルターニュ)と呼ばれるようになり、やがてただ『ブルターニュ』となったので、もとの『ブリタニア』(ブルターニュ)の島を『大ブリタニア』(グランド・ブルターニュ)と呼ぶことにした。英語では『グレイト・ブリテン』だ」。
「ブルトン人(=ブルターニュ人)のほかに『フランク人ではないな』とイメージされるのはノルマン人だ。英語風に言えばノースマン(北人)だ。スカンジナビア方面から来たのでそう呼ばれた。つまり今で言えばスウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人である。これは全くの『海賊』だ。自分たちで『ヴァイキング』と称して威張っていた。ノルマン人集団の襲撃、略奪の被害は、定住したアングロ・サクソン人も、ブルトン人も受けている。ついにはフランセー(=ラテン語の崩れたことばを話しているケルト人であるガロ・ロマン人が、自分で勝手にフランク族だと思いこんでいる連中)も、9世紀半ばにシャルルマーニュが没したあとはやられる。ノルマン人集団はセーヌ河をさかのぼって(川賊だ)パリにまで攻め込み、今ノートルダムのあるシテ島に火を放ったりした。ついに1年も包囲され、賠償金を払って立ち退いてもらった。弱体化していた第二王朝(カロリング王朝)のフランク王国としては困って、西北2つの半島の上の1つを領地として与えて、族長を公爵にしてあげた。『ノルマン』の土地だから『ノルマンディー』という名になった。911年、ノルマンディー公爵の始まりである。一応フランス国王の臣下という形だった。幾世代もしないうちにゲルマン語は忘れ、当時の古い形のフランス語(ロマン語)に同化した。ところが王権はまた家来筋の第三王朝(カペー王朝)に移る(987年)。ユーグ・カペーは公爵の家系だが、チャンバラ好きなのか、いつも頭巾つき外套(カペー)を着ていて、あだ名が家名になった。ノルマンディー公職家が新王家と対等のつもりになっても仕方ない。そして凄い。フランスに来て5世代目で、7人目のノルマンディー公爵ギョーム(英語形ウィリアム)がイングランドを征服して、王位を奪ってしまう(1066年)。アングロ・サクソン人の王が親戚に王位を奪われたとき、ウィリアムは縁戚関係で自分の方が権利があるとして、海を越えて攻め込んだ。このウィリアム・ザ・コンケラーが征服王として、現英国王家の御先祖様だ。王家は当然フランス語しか話さない。ノルマン貴族たちもそうだ。アングロ・サクソン人の貴族も生き永らえるためには新王家の言語フランス語を話さなければ。こうして300年、やっとアングロ・サクソン語でもない、フランス語とも違うことばがイングランドにできあがり、イングランド語(イングリッシュつまり英語)と呼ばれるようになった」。
「なんだか、ブルトン人の話もノルマン人の話も半分英国史みたいだった」と、またまた述懐しています。
しかし、「それはそうだ。このころはまだ近代的な意味での『英国』などない。半分以上フランスなのだ。フランスにしても、まだ近代的な意味でのフランス国ではない。『フランク王国』に毛が生えたようなものだ。では、ブルトン人だのノルマン人だのを含みこんだ、近代的な意味でのフランス、ひいては国家がどうやって成立したか、眺めてみよう」。
「14世紀になると、イングランドでは、王家の言語であるフランス語がいよいよ現地語と混ざって崩れ、イングランド語(イングリッシュ)と称する別言語ができる。もう方言の違いではない。イングランドに生まれ育った民と、地方はどこであれ大陸のフランス生まれの民では、違いが意識される。・・・14世紀になってイングランド国王は、大陸にあるギュイエンヌ公爵領でフランス国王に臣下の礼を尽くすのを不愉快に感じた。以前当たり前だったことがそうでなくなったのだ。国王と貴族の関係、婚姻で動く支配権、そういう古代からの慣習による意識とは別の考えが芽生えたのだ。国家観念である」。
奥本同様、私もこういう講義を受けたかったと、つくづく思います。本書のおかげで、これまで頭の中でごちゃごちゃしていたフランスとイングランドの歴史上の関係、その周辺との関係、フランス語と英語の関係――が、霧が晴れるようにすっきりと理解できました。篠沢秀夫というのは、単なるクイズ番組の人気者ではなく、学者、教育者としても相当な人物だったのですね。