榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

中世の端緒・鎌倉幕府成立は、歴史の必然ではなく、予期せぬ結末だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1372)】

【amazon 『源平合戦の虚像を剥ぐ』 カスタマーレビュー 2019年1月21日】 情熱的読書人間のないしょ話(1372)

2mという近距離で、小型のタカ、ツミの雄が捕らえた獲物(スズメかシジュウカラ?)を食いちぎる一部始終を目撃しました。ツミの嘴、足指も、止まり木も血で赤く染まっています。マガモの群れ、アオサギの若鳥をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は10,627でした。

閑話休題、『源平合戦の虚像を剥ぐ――治承・寿永内乱史研究』(川合康著、講談社学術文庫)には、「平家物語史観」を覆す驚くべき研究成果が凝縮しています。

「平家物語史観」とは、どういうものでしょうか。『平家物語』は、「弱い西国武士=平氏軍」対「強い東国武士=源氏軍」という構図を描くことによって、「平氏軍の敗北を自明なもの、必然的なものとして読者に納得させる効果を生みだしているといえよう。斎藤実盛の発言や『駆武者』の描写は、『盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり)』に基づく『平家物語史観』の、いわば重要な装置となっているのである」。

次いで、「平家物語史観」と内乱史認識が共通する「石母田領主制論」なるものが登場します。「石母田正氏は、武士=在地領主階級を、古代的な貴族政権と荘園制を打破・克服していく政治的・階級的主体ととらえ、『源平合戦』や『源平の争乱』と世間一般によばれているこの争乱を、『源平』の争覇ではなく、『主要な階級がそれぞれの利害と本質にもとづいて、全国的にしかも公然と行動』した古代末期の『内乱』として規定した。つまり、在地領主制が古代国家権力を克服して封建制を実現していく重要な一政治過程として、『治承・寿永の内乱』(学界では『源平内乱』を当時の年号をとってこのようによんでいる)は位置づけられたのであり、このような『石母田領主制論』は一見して『平家物語史観』とはまったく無縁に思えるに違いない。しかし、在地領主の武家政権への結集を封建国家の端緒としてとらえる『石母田領主制論』の立場は、この治承・寿永の内乱の帰結=鎌倉幕府の成立を歴史的発展段階として必然視しようとするものであり、古代国家の傭兵隊長と位置づけられた平氏の没落は、ここでも自明のこととされているのである』。

上記を踏まえて、鎌倉幕府成立は「予期せぬ結末」だったという主張が展開されています。「内乱が全国で同時多発的に勃発した治承4(1180)年から寿永2(1183)年初頭までは、(源氏の)反乱諸勢力よりはむしろ平氏勢力が優勢のまま大飢饉のために戦線が膠着化した段階にあたる。そして寿永2年5月の北陸道における平氏軍の敗北、7月の平氏都落ちによって、軍事情勢はいっきに流動化することとなるが、この段階においても平氏軍はいまだ西国に強固な基盤を保っており、(源)義仲・行家・頼朝などの他の軍事権力と比べて、必ずしも劣勢にあるとはいえない。頼朝の軍事的優位性が確立されるのは、翌寿永3(1184)年2月の一の谷合戦以後、機内近国を軍事的制圧下においてからのことと理解されるが、それでもなおこの時点から1年をかけて平氏を壇ノ浦での滅亡へと追い込んでいくことを考えれば、『平家物語史観』がいかに治承・寿永の内乱を結果論的に単純化しているかは明瞭であろう」。

「そして、このような内乱期の流動的な政治情勢のなかで、内乱勃発時には誰も想像しなかったに違いない事態が生みだされてくることになる。すなわち、関東を中心とした反乱軍が相模国鎌倉に本拠地をおいたまま軍事的成長をとげ、唯一の『官兵』としてみずからを位置づけていく事態、それが鎌倉幕府の成立であった。鎌倉幕府は、治承4年の内乱勃発から文治5(1189)年の奥州合戦にいたる、10年近くにわたって続いた『治承・寿永の内乱』という未曽有の規模の全国的内乱の予期せぬ結末だったのである」。

石母田領主制論で中世社会を切り開く英雄=変革主体として美化されてきた武士の実態、そして、治承・寿永内乱期の戦争の実態を復元するという目的を果たすことに、本書は見事に成功しています。