木曽義仲研究の第一人者の『木曽義仲』には、3度も驚かされた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1081)】
アマリリスが、白地に薄朱色の線が入った大輪の花を咲かせています。黄色いクンシランもあるんですね。ヤグルマギクの青い花は、よく見ると綺麗です。ヒアシンソイデス・ノンスクリプタ(イングリッシュ・ブルーベル)が釣り鐘状の水色の花を下向きに付けています。オーニソガラム・ドゥビウムが橙色の花を咲かせています。チューリップ、パンジーが咲き競っています。因みに、本日の歩数は10,878でした。
閑話休題、『木曽義仲』(松本利昭著、光文社)を読んで、驚いたことが3つあります。
驚きの第1は、著者の木曽義仲に対する熱い思い、義仲が田舎者で、かつ朝敵であったとする「冤罪」を何としても晴らせねばという執念です。
「私は、巴や義仲の足跡を訪ねて、実際に各地を廻り、取材と資料収集と、肌身でその土地に接しますと、たとえ物語にせよ歴史を記述した書物が、現代の人々にまで与えている無惨さに強く胸を打たれたのでした。調べれば調べるほど、また彼らの生き方と一体化して想いを巡らせば巡らすほど、なんとも言いようのない憤りがこみあげて来ました。彼らは未だに国賊のままであり、木曽の山猿と呼ばれているではありませんか。彼らは国賊ではない。無知蒙昧な木曽の山猿でもなければ、礼儀知らずの田舎者でもない」。
第2は、義仲を肯定的に評価した先達として、九条(藤原)兼実(『玉葉』)、松尾芭蕉(遺言で義仲寺の義仲の墓の隣に埋葬されている)、新井白石(『読史余論』)、芥川龍之介(『木曽義仲論』)が挙げられていることです。
第3は、本書が義仲と巴を主人公とする小説の形を取りながら、随所に義仲研究の成果が織り込まれていることです。浅学の私は知らなかったが、著者の松本利昭は義仲研究の第一人者だったのです。
「松殿(藤原基房)は、それ(次の天皇を誰にするかの御前会議)から4カ月後の11月19日、法住寺合戦後に義仲が実権を握ると、嫡子の師家は新帝(後鳥羽天皇)の摂政に、娘の伊子姫は義仲の正室となり、法皇に仕えた多くの公卿を解官、新しい政権の樹立に向かって進む、義仲の後見役になっていた。いうなら義仲は都入り後に、権僧正の俊堯とおなじく、(平)清盛によって関白を罷免された松殿にいち早く接近、都でのさまざまな知恵を授けられていたと見ることができるのである」。
「(後白河)法皇は叡山より還御される道中、輿の傍に付き添った恵光房珍慶という僧が、白井幸明より聞いた話として、北陸宮を新天子として擁立、新しい国造りを目指そうとしていることこそ、『院(後白河)がこの国のすべてをしろしめす』一人独裁の院政を廃しようとしているのに違いないと、感づかれたのであった。これこそ俊堯が心配したように、義仲の悲劇を生む真因となった。そうでなければ法皇が、入京した当日の義仲を直ちに召して平家追討を命じ、また(源)頼朝に、義仲を早く討てとの密勅を下す筈もないからである。すなわち法皇は義仲を、平家や鎌倉を牽制するために弱める牙ではなく、官位や所領などで表面を糊塗しながらも、速やかに除かねばならない牙として見ていたと考えられる」。平家と共に西国に落ち延びた安徳天皇(後鳥羽の孫)の次の天皇として、尊成親王(安徳の異母弟。後鳥羽天皇)を立てようと目論んでいた後白河法皇は、以仁王(後白河の第三皇子)の第一王子・北陸宮を推挙した義仲を許せなかったのです。
著者は、『平家物語』、『源平盛衰記』、『玉葉』、『吉記』、『百錬抄』、『愚管抄』などの史料を読み込んだ上で執筆しているのだが、私が一番驚いたのは、源義家の跡目を巡る源氏一族内の血で血を洗う争いや、義仲の従兄にしてライヴァルの頼朝に関する歴史的事実が記されていることです。
「八幡太郎義家の後継者となって源氏の宗家を継ぐことは、とりもなおさず武家の棟梁として『天下第一武勇之士』の盛名と誇りと支配権を受け継ぐことであった。八幡太郎義家には、賀茂二郎義綱と、笛の名手である新羅三郎義光という2人の弟がいた。子息には、義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆の6人の男子がいた。長子の義宗は夭折し、次男の義親は出雲国の目代を殺して官民の財を奪うなどの悪業の果て、追討使によって攻め殺された。・・・四男である検非違使(裁判官兼警察官)の義忠が後継者となった。そして義忠は父義家の命によって、兄義親の子の為義をわが嗣子とした。・・・(ところが、義家死後の義忠暗殺の)嫌疑が源氏の跡目を担っていたとして、義家の弟の賀茂二郎義綱に向けられた。義綱は一族を連れ潜かに都を逃れたが、朝廷は義忠の嗣子の為義に義綱の追討を命じた。・・・義忠を襲わせたのは、新羅義光が己の郎党の鹿嶋三郎に命じてやらせたことであるという。・・・(鹿嶋三郎は)生き埋めにされてしまい、かくて義光は誰に疑われることなく、この事件は永遠に穴の中に埋められたという」。
「義仲がおおよその予想に反して、平家の大軍を一挙に壊滅させ、朝廷より官軍として都へ迎えられると知るや、頼朝は先に密書を後白河法皇の許に送り届けた。『源氏一族の義仲は、わが鎌倉の代官なり。証として嫡男の義高を人質に致しており申す』。こうして頼朝はそれまで一度も平家と戦わずして、平家追討の勲功、第一位は頼朝、二位は義仲なりと、大功を横から奪ってしまうのである。『頼朝がそれまで一度も平家と戦わず』というのは、治承4(1180)年10月18日の夜半、水鳥の大群が一度に富士川べりを飛び立ったのを見た平家の大軍が、すわ源氏の夜襲なるぞと散を乱して敗走したという、その源氏の軍勢とは頼朝ではなかった。源氏は源氏でも甲斐源氏である武田信義の率いる4万の大軍で、武田信義はその時まだ頼朝と逢ってはいなかった。従って甲斐の武田は鎌倉の軍勢などではなかったのである。なお甲斐源氏の武田も後に鎌倉の謀略にかかり、膝下に慴伏させられてしまうのである」。清和源氏というのは、代々、同族でありながら謀略や争いの絶えない一族だったということが分かります。