亡き父から聞かされた榎戸氏と塙世城について、もっと知りたくなった・・・【続・独りよがりの読書論(45)】
茨城・真壁出身の亡き父から、我が榎戸氏は戦国時代、真壁氏の有力家臣であり、今も当時の墓が残っていること、帰省の際は必ず訪れる榎戸本家は榎戸氏が築城した塙世城(はなわぜじょう)の跡に建っていると聞かされたことがある。佐竹氏とも関係が深く、榎戸家の家紋が佐竹扇なのはそのためだとも言っていた。父は、小学生の私の歴史好きをからかって、誠は歴史の先生か区役所の戸籍係になればいい、と笑っていた。
この年になって、父の言葉を確認したくなり、『常陸真壁氏』(清水亮編著、戎光祥出版、シリーズ・中世関東武士の研究)を手にした。
「戦国期真壁城と城下町の景観」の章に至り、榎戸氏が登場する。地図に記された塙世城の広さは想定を遥かに超えるものであった。
「近世中期の村絵図との照合や、古文書の存在から、これらの人物は旧真壁氏家臣江木戸(榎戸)氏一族と推測され、その子孫は現在も同所に居住されている。江木戸氏は、永禄3(1560)年の足利義氏感状をはじめ、永禄12年の北之郡の合戦、天正12(1584)年の野州沼尻での後北条氏との合戦等に、真壁氏、佐竹氏から官途状を得ており、16世紀後半に活躍した有力な一族であった。塙世城に江木戸氏が居城した時期や経緯は必ずしも明らかではないが、家伝書(位牌)では、塙世来住を天文元(1532)年としている。近年、真壁城跡出土資料に類する16世紀中葉以降のかわらけ、内耳土鍋が出土し、16世紀後半には現況小字で『中坪』『中南』『金砂』『赤岩』『鴫内』『三反田』を中心とする城域が成立したと思われる。塙世村の中世の概況を確認したところで慶安4(1651)年『常陸国真壁郡塙世村検地帳』(榎戸家文書)に注目したい。この検地帳には、塙世村の土器生産に関連すると思われる名請人と屋敷地が記載され、17世紀中葉の土器生産の実態をうかがうことができる」。
「塙世城付近での中・近世の土器生産は、真壁氏の構想下に確立したと思われ、家臣江木戸氏の配置は城下町西側の防衛を目的とし、土器生産体制は真壁城とその城下町という大消費地と原料土採掘地を見据えた位置にある。さらに、塙世城付近は中世の主要陸路と桜川の接点にあたる交通の要衝で、『常陸国富有仁注文』に記されるような、経済・物流活動の盛んな土地であった点にも注意したい」。
これらのことを、私同様、歴史好きだった父に報告できていたら、さぞかし喜んだことだろう。
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