武田勝頼は決して愚将ではなかった、ただし、不運の人であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1385)】
ムクドリが電線で整列しています。赤茶色のドバト(カワラバト)を見かけました(伝書鳩愛好家の間では、この色は「栗(くり)」と呼ばれています)。ソシンロウバイの香りが漂ってきます。因みに、本日の歩数は10,035でした。
閑話休題、名将・武田信玄の跡を継ぎ、武田氏滅亡の当事者となった武田勝頼は世評どおりの愚将だったのか否かを確認するために、『武田氏滅亡』(平山優著、角川選書)を手にしました。751ページと大部な著作だが、研究者たちの最新の研究成果が遺漏なく盛り込まれていて、不要な記述が見当たりません。
読後の私の結論は、勝頼は決して愚将ではなかったというものです。その理由は、●長篠合戦の大敗後、7年間に亘り、よく態勢を立て直し、信玄時代を上回る版図拡大を実現したこと、●武田氏を巡る厳しい環境を冷静に認識し、長年の宿敵・上杉氏との和睦を図るなど、巧みな外交戦略を展開したこと、●最大のライヴァルである織田信長も、勝頼の力量を認めていたこと、●勝頼の正室と嫡男が、自らの死を覚悟した時も、勝頼に尊敬の念を抱いていること――です。
「長篠敗戦により、武田勝頼が主導権を握り、圧倒的な強さを示してきた奥三河の戦線は完全に崩壊したのである。そして敗戦の余波はやがて、東美濃にも及んでくるのであった」。
「見逃せない事実がある。じつは、長篠合戦直後から、(長年の宿敵)上杉謙信と武田勝頼が和睦交渉を行っていた形跡がある。・・・このことは、長篠敗戦が勝頼の外交路線に重大な転換をもたらしたことを暗示する。勝頼は、織田・徳川氏だけでなく、上杉氏とも対峙する不利を悟り、長篠敗北後ただちに和睦交渉に入ったのであろう。・・・勝頼のすばやい決断と交渉により、上杉謙信の信濃出兵は見送られ、武田・上杉両氏の和睦が成立したのであった。これは信長の戦略を大きく狂わせることとなった」。
「(謙信没後の)上杉景勝と景虎による越後内乱(御館の乱)は、戦国史の流れを大きく変動させるきっかけとなった。その過程で、武田勝頼と北条氏政の甲相同盟は破綻し、それが武田氏滅亡への流れを形作っていくこととなる」。
「甲相同盟が破綻し、甲越・甲佐同盟などの北条包囲網を固められた北条氏政は、この危機を打開すべく、徳川家康との同盟を実現させ、次いで織田信長との交渉にも成功した。かくて成立した織田・徳川・北条同盟は、武田勝頼包囲網の形成にほかならなかった」。「甲佐同盟」の「佐」は佐竹義重を指しています。
「実をいえば勝頼は生き残りを懸けて、様々な外交を展開していた。・・・天正7年に勝頼が使者を安土城に派遣し、織田信長との和睦交渉を開始しようとしていたのは明確な史実である。これが確認できるのは、天正8年閏3月23日付の小笠原貞慶宛柴田勝家書状写である。・・・(しかし)信長は、武田氏を滅亡させこそすれ。同盟はむろん和睦することすら念頭にはなかったのである。・・・武田勝頼は、織田氏の養女を生母とする(嫡男の)信勝を家督に据えることで、信長との関係改善を図ろうとした。さらに勝頼は、切り札を使うことで、『甲江和与』の実現を目指した。それは、人質として武田氏のもとにあった、信長の子源三郎を送還することである」。「甲江和与」は、武田・織田両氏の和睦交渉を意味しています。
「(武田一族の重鎮)穴山梅雪はすでにこの時点で、織田・徳川方に密かに内通していたのである」。
著者は、武田氏最後の合戦を、「天目山の戦い」と称するのは誤りとして、「田野(たの)合戦」と呼んでいます。「勝頼は自刃を決意すると、安西伊賀守・秋山紀伊守を使者として(正室の)北条夫人のもとへ送り、女の身で自刃するには及ばない。ここから逃れ、小田原に帰り、自分の菩提を弔ってくれるよう伝えた。北条夫人はこれを聞いて驚き、夫婦になった縁は来世までのもので、ともに死出の山、三途の川を越える覚悟であると言ってこれを拒否した。北条夫人は子をなすことがなかったことが唯一の心残りだと思い、自分の亡き後、小田原の実家で菩提を弔ってほしいことなどを文に認めた」。北条氏政の妹である北条夫人は、享年19(数え年)でした。
「勝頼には自刃説と戦死説とが対立したままであり、その最期の模様は今も謎に包まれている。勝頼は享年37(数え年)であった。・・・かくて武田氏は、天正10(1582)年3月11日巳刻(午前10時頃)、田野で滅亡した」。
「『三河物語』は『勝頼御親子之首級を信長之御目にかけけれバ、信長御覧じて、日本に隠なき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな』と述べたと記録しており、ぞんざいな扱いをした様子は見受けられず、勝頼の不運に同情していたようである」。また、信長朱印状には、「四郎(勝頼)は若輩に候といえども信玄の掟を守り表裏たるべきの条油断なきの儀」という一節があります。
「武田信玄の墓所で、武田氏菩提寺の恵林寺炎上は、武田氏滅亡と織田氏の隆盛という事実をこれ以上ないほど強烈に印象づけた事件となった」。織田軍に放火され炎上する恵林寺の山門楼上で快川紹喜が「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という偈を残して遷化したと伝えられているが、この偈を唱えたのは、共に焼死した高山和尚であったというのです。快川が泰然自若と死に臨んだのは確かなようですが。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたのは、武田氏滅亡から僅か3カ月後のことでした。
年を重ねてきて私が思うのは、その人が成功するか否かは、その人の実力や努力も重要であるが、一番大きく作用するのは運だということです。この意味で、勝頼は愚将ではなかったが、生まれた瞬間から死ぬまで、気の毒なほど不運の人でした。勝頼に合掌。