『古今和歌集』の編集は、身分の高くない撰者たちによって、ささやかに始められたという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1418)】
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閑話休題、『「古今和歌集」の創造力』(鈴木宏子著、NHKブックス)からは、著者の『古今和歌集』(略称:『古今集』)に対する熱い思いがひしひしと伝わってきます。
著者は、『古今集』の四季歌の特徴を、こう捉えています。「まず一つは、ありのままの自然ではなく、かくあるべき四季を歌うこと。『古今集』には、見たまま感じたままの自然などはない。四季の自然はいったん細かな要素に分解され、それらの中から歌うに値する景物だけが選び取られる。そして、精選された景物のあいだには『梅の枝にとまる鶯』『桜を隠す霞』『花橘を宿とする時鳥』『萩を愛でる鹿』『紅葉を染める露』といった和歌固有の美的な連想の糸が張り巡らされている。このようにして、森羅万象の中から、もう一つの理想的な四季が見いだされているのである。歌われる景物どうし、言い換えれば『ことば』どうしは、新たに発見・設定された連想関係によって結びついており、ひとまとまりの有機的なネットワークを形成している。そうした『ことば』のネットワークを前提としてさまざまな歌が生まれるのであり、新しい歌を詠むことはネットワーク自体の更新にもつながっている」。
「もう一つは、自然把握の『型』が、そのまま人の『こころ』にかたちを与える装置でもあること。たとえば『花と霞』は、春の自然を切り取るものであると同時に、『霞』という邪魔者を設定することによって、『花』を愛してやまない人の『こころ』にくっきりとした輪郭を与える機能を持っている。『菊と霜』は、二つの景物の清らかな美しさを引き立て合うものであると同時に、そうした景物を嘆賞する人の『こころ』のかたちでもあった。つまり『型』自体の中で、四季の自然と人の感情とが、一つに融け合っているのである。こうした特徴は『古今集』四季歌に通底するものである。『古今集』は、人の『こころ』というフィルターを通した理想的な四季を創造しているのである」。
「恋歌360首の大半は、本来は歌人の実人生の中で、恋する者どうしで詠み交わされた歌であったはずだが、『古今集』は個人的な恋の事情を語ることには禁欲的であり、撰者自身の作も含めて、多くの恋歌が『題知らず(詠歌事情未詳)』とされている。個々の歌は詠歌の場から切り離された上で、『古今集』という歌集の論理の中に位置づけられ、時とともに変化する『恋の全体像』をかたちづくるのである。こうした配列は『万葉集』には未だ見られず、『古今集』撰者が創造したものであった。『古今集』が描き出した恋は、長く日本古典文学における恋の原型として生きつづけていくことになる」。
「(『初めて逢う一夜』を描いた恋歌は)歌や詞書の中から『よひ→よなか→あかつき→あした』という時の進行を読み取ることができる。『よひ』は夜の始まりのことで、男が女を訪ねていく時刻にあたる。『よなか』は文字通り真夜中のこと。恋人どうしがともに過ごす大切な時間である。『あかつき』は夜の終わり。夜明け前のまだ暗い時刻をいい、恋人たちにとっては別れの時にあたる。『あした』は翌朝。空がすっかり明るくなったのちである」。
「『古今集』における(在原)業平の存在は大きい――私はそのように考えている。『古今集』を代表する歌人を一人挙げるとすれば、それはまちがいなく紀貫之であるが、もしも業平の存在がなかったら、この歌集の魅力は3割がた目減りしてしまうのではないだろうか。業平の歌はいかにも『古今集』的な表現技巧を駆使したものでありながら、貫之とはまた異なった特質を備えている。そして『古今集』は、そのような業平の歌に詳細な詞書を添えて、要所に位置づけている。『古今集』の撰者たち、とりわけ貫之は、みずからの理想とは少し異なるのであろう業平の歌を、深く理解し、敬意とともに『古今集』の中に取り入れており、業平の存在は『古今集』を成り立たせる力源の一つとなっているのである」。
最初の勅撰和歌集である『古今集』の誕生は、日本文学史における画期的な出来事であったが、後世に与えた力の大きさとは裏腹に、最初の企画自体は、ごくささやかなものだったのではないだろうか――というのが、著者の主張です。
「近年の和歌研究において、そのように考えられるいくつかの証拠が指摘されている。第1は『命令系統』の問題。勅撰漢詩集や醍醐朝の歴史書・法律書の場合は、天皇の勅命を公卿クラスの人が受けて、さらに実務担当者に委ねるというしかるべき手順を踏んだことが序文の中に明記されるが、『古今集』の序にはそうした記述が一切見られない。一口に勅撰とは言っても、歌集の扱いには、ある種の軽さが認められるのである。第2は『場所』の問題。『貫之集』によれば、『古今集』の編集作業は『承香殿の東なる所』において行なわれたという。従来この場所は、宮中の文書を管理する『内御書所』を意味すると考えられてきたが、実は内御書所という機関が設置されるのはもう少しのちの時期であったことが明らかにされた。どうやら『古今集』編纂作業は、権威ある役所の中ではなく、文字どおり後宮殿舎の片隅に設けられた仮の編集室において――そこは帝から声がかかるような晴れがましい場所ではあったが――こぢんまりと進められたらしい。第3は『人』の問題。『古今集』の撰者たちはおしなべて身分が低い。勅撰漢詩集の撰者たちが天皇の側近である重臣であったことと比べると、雲泥の差である。そして紀氏関係の歌人の歌が多いこと。勅撰和歌集の編纂が貴族社会の注目を集める重大事であったなら、こうした偏りは許容されなかったであろう。『古今集』は勅撰和歌集であるが、勅撰の重みは後世のそれとはずいぶん異なるものであった。のちの時代のあり方から遡って『古今集』をめぐる状況を推し量るのは、おそらくまちがいなのであろう。『古今集』は、当初の期待と予想をはるかに超える到達点を示した歌集であった。機が熟したから『古今集』が編まれるのではなく、『古今集』が誕生することによって日本文学史の新しい頁が開かれるのである」。この指摘は刺激的、かつ衝撃的です。本書の肝はこの大胆な仮説にあると、私は考えています。