貧困・差別・戦争に抗するために書かれた『君たちはどう生きるか』を、今日、私たちが読む意義とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1431)】
今日は嬉しいと同時に残念な一日でした。突然飛び出してきた茶色いニホンノウサギを7mという近さで目撃できたものの、ぴょんぴょんと飛び跳ねていく後ろ姿を50mほど先で見失ってしまい、カメラに収めることができなかったからです。サンシュユが黄色い花を咲かせています。白い花のボケを見つけました。レンギョウが黄色い花をまとっています。黄色い花を俯き加減に付けるトサミズキとヒュウガミズキはよく似ているが、トサミズキの雄蕊は赤く、花が小振りのヒュウガミズキの雄蕊は黄色いので見分けられます。ユキヤナギが白い花をびっしり付けています。キズイセンも頑張っています。今夜は満月です。因みに、本日の歩数は10,518でした。
閑話休題、『「君たちはどう生きるか」を読み解く――あるジャーナリストの体験から』(橋本進著、大月書店)のおかげで、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が書かれた時代背景、敬愛する山本有三に代わって吉野が筆を執ることになった事情、この作品に込められた吉野の思いを詳しく知ることができました。
「1937(昭和12)年に刊行されたこの本(『君たちはどう生きるか』)は、現在もなお読みつがれている。当時の中学生向けに書かれた物語だが、高校を卒業された皆さん、いや私年輩の人間が読んでも教えられることが多い。岩波文庫のテキストの巻末に、丸山眞男氏の『<君たちはどう生きるか>をめぐる回想』という文章が収められている。サブ・タイトルに『吉野さんの霊にささげる』とあるように、吉野さんが亡くなったとき(1981年)の追悼文ですが、読むとわかるとおり美事な解説の役割を果たしている。現代有数の政治学者・丸山さんはこの文章の最初のほうで、少年期の鶴見俊輔氏や自分がこの『君たちは・・・』から大きな感銘を与えられたことをのべている。鶴見さんは、これまた現代日本で有数の哲学者・思想家です。この作品は少年向けの読物なのに、大学を卒業して法学部助手(東大)になった青年・丸山は読んで『震撼される思い』がし、『自分ではいっぱしオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがした』と書く」。
「吉野源三郎さんとはどんな人か。出版ジャーナリストの大先輩です。1899年東京生まれ、東京大学哲学科卒。三省堂編集部をへて、東大図書館勤務。1937年、岩波書店に入社、翌年、岩波新書の創刊に携わる。いま日本ではいろんな出版社から何々新書という本が出されているが、新書という形式で本が刊行されるようになったのは、これが最初です。戦後、総合雑誌『世界』を創刊し初代編集長、編集担当の重役をつづけた。一方でジャーナリスト活動をしながら、他方、戦後結成された労働組合『印刷出版』(今日の出版労連、全印総連)の書記長をやったり、日本ジャーナリスト会議(JCJ)の初代議長になったりした。編集者であり、思想家・哲学者であり、ジャーナリスト運動や平和運動の実践者でもあった」。
「吉野さんや丸山さんが逮捕されたり、勾留されたりしたのは、治安維持法によるものであり、数々の弾圧もいずれも治安維持法によるものであった。1925(大正14)年の公布から1945(昭和20)年敗戦による廃止まで、日本の社会運動・言論思想弾圧に猛威をふるい、国民の自由をじゅうりんした治安維持法は、『治安』という名の日本軍国主義の人民支配にとって、万能の武器であった」。
「『君たちはどう生きるか』は、山本有三編『日本少国民文庫』(全16巻、新潮社)の第5巻、最終配本として、1937(昭和12)年7月に刊行された。同文庫は山本有三『心に太陽をもて』(第12巻)の刊行から始まった。刊行の意図と経緯は吉野さん自身の『作品について』(テキスト巻末)で語られている。刊行開始の1935年は、『1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期』であり、『ファシズムが諸国民の脅威となり、第二次世界大戦の危険は暗雲のように世界を覆って』いたころである。同文庫の刊行は、『もちろん、このような時勢を考えて計画されたもの』だった。言論や社会運動は弾圧され、『山本先生のような自由主義の立場におられた作家でも、・・・もう自由な執筆』は困難だった。その中で、山本氏は、次代を背負うべき少年少女たちに、『偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない』、『荒れ狂うファシズムのもとで』『ヒューマニズムの精神を守らねばならない』と考えた。その考えから双書刊行が思いたたれたのである。・・・そして倫理を扱う巻を、吉野さんが(眼病に罹った)山本さんに代わって執筆することになった。この書は全16巻のなかで『特にその根本の考えをつたうべき一巻』と位置づけられ、吉野さんは『文庫発刊の趣旨をこの一巻に盛り込む』べく執筆にとりくんだ。1936年11月頃から執筆開始、37年5月に原稿完成」。
「軍国主義の暴力支配の学校版=上級生の『制裁』にたじろぎ、挫折した少年、その挫折を理性によって克服していく姿を描くことによって、いまは軍国主義・侵略行動に熱狂させられている国民も、やがては理性をとりもどし、平和への道を歩むであろう、いや、歩まねばならないとの思いを、吉野さんはこの物語にこめたのである。テキスト第3章の『ノート』で人間同士の争い、国と国との利害の衝突(戦争)の問題を指摘、『本当に人間らしい関係とは』という問題を提起し、第7章の『ノート』中、人間の苦痛のくだりで、人間同士の調和と不調和、愛・好意と憎しみ・敵対についてのべる背後には、このような思いがある」。
「そして、もう一点、人間の成長・発達と挫折・阻害の問題が提起されているが、これも当時の社会をみつめた吉野さんのメッセージであった。日本人の人間としての成長、人格の発達を妨げたのは、軍国主義と貧困であった。テキスト第4章『貧しき友』でみたように、貧困は当時の深刻な社会問題であった。貧困は人びとが自由に才能を伸ばしていくことを妨げた。同時に『満蒙は日本の生命線』『行け満蒙の開拓へ』と宣伝し、侵略によって貧困問題が解決されるかのような幻想をあおり、民衆を侵略支持に駆り立てた。吉野さんの眼は、戦争と貧困に注がれていた」。
「『君たちは・・・』が書かれた日中戦争の時代とは別の形態ではあるが、再び『戦争をする国』にするか、しないか、貧困・差別・選別を増大させるか、克服するか――そのために、君たちはどう生きるかが問われる時代になった。その問いは当然自分自身への問いである。『私たちは、どう生きるべきか』」。著者・橋本進が心を込めて本書を著した理由が、ここにあるのです。