徳川家康の先祖は、徳阿弥というこじき坊主であったらしい・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1482)】
ベニバナトチノキが赤桃色の花を、ハクウンボクが白い花を、キリが薄紫色の花を、ミズキが白い花を、シャクヤクが桃色の花を、キスゲ(ユウスゲ)が黄色い花を咲かせています。ミナミメダカが元気に泳ぎ回っています。我が家の庭の片隅で、小さな桃色のバラが咲き始めました。因みに、本日の歩数は10,684でした。
閑話休題、『日本史のしくみ――変革と情報の史観』(林屋辰三郎・梅棹忠夫・山崎正和編、中公文庫)は、ユニークな視点から、日本史を「変革」と「情報」というキーワードで見直そうという試みです。
とりわけ強く印象に残ったのは、「わびとふるさと――応仁の乱・戦国時代」です。
この中で、司馬遼太郎が徳川家康の先祖の出自について語っています。「大久保彦左衛門の『三河物語』によると、徳川家の先祖というのは、『中有ノ衆生ノゴトク』あちこちをさまよい歩いていた徳阿弥というこじき坊主であったらしい。その徳阿弥が室町中期ごろ、三河の山の中の松平郷にやってきて、その山間の有力者の家にはいりこみ、その家の娘(ひょっとすると後家)に通じることによって、家系が出発した。この山間の有力者というのも、公認の名主(みょうしゅ)階級ではない。第一、その山里には川がなく、田ができない。察するに、山畑を掻いて野菜をつくり、あとは樵などをして暮らしていた山家住まいのグループらしく思われる。百姓でも米百姓の地位は高く、畑百姓は卑しい。松平家が樵か猟師のグループの大将であったろうというのは、その地理的環境からみた筆者の想像だが、この日常チームワークを鍛練する仕事を通じて、彼らは乱世のなかへ出た。軍事活動団としては、田百姓の村を雑兵の供給地とするほかの連中よりは、ごくさらさらと機能的に働けたであろう。松平家は、川のある土地、つまり米作のきく土地を欲した。この家系は、数代かかって渓流の沿岸地に出、やがて川筋伝いに三河平野に出、岡崎城を根拠地にするにいたっている。そのころに家康が出た。家康の幸運は、彼は生まれながらにして、松平家臣団という、他に例をみないほどにチームワークの練度の高い軍団の主であることだった」。
続いて、山崎正和が「わび」、「さび」、「幽玄」について述べています。「『幽玄』『しぶい』といえば、現代の西洋人によって、あたかも日本的な美の代表のように思われている。『わび』『さび』『幽玄』と微妙な区別を含みながら、たしかに中世以来、日本人には一種の禁欲的な美意識が一貫している。はなやかできらびやかな趣味に対して、つつましく抑制された表現への積極的な愛好である。・・・それは、美意識そのものの要求による表現の抑制だといえるし、いわば裏返しにされた感覚の喜びだともいえる。実際、『わび』や『幽玄』はその成立の当初から、つねに豪華絢爛たる美の世界と背中合わせに成長しているのである。世阿弥の使う『幽玄』は、今日の語感とは違って、あでやかで優美な風情を意味していた。彼を生み出した大和猿楽は、民衆の芸能としてもともと感覚的で、表情豊かな芸風を持っていたらしい。しかし、同時代に栄えた近江猿楽は地味で枯淡な芸風を持っており、近江の犬王道阿弥は、世阿弥によれば『胡銅(ブロンズ)』のように渋く高雅な芸を見せたという。あでやかな美を現わすのに『幽玄』ということばを使うことも不思議だが、芸の内容のうえでも、世阿弥はこの二種類の美を総合しようと試みたといえる」。
「戦国時代に生まれた『わび』もまた、決して単純にはなやかな趣味の拒絶ではなかった。草庵の茶を編み出した利休は、唐物や南蛮趣味に造詣が深く、秀吉のために黄金の茶室を作る芸術家でもあった。江戸初期の尾形光琳や乾山の作品のなかに、わび茶の心と華麗な王朝趣味が深くからみあっていることはいうまでもない。とくに16世紀は法華信仰の時代でもあって、狩野派や本阿弥光悦など、熱心な日蓮信徒の芸術家が活躍した。その現世肯定的な光の芸術は、影の芸術ともいうべき『わび』と表裏一体の関係をなしていたのである」。
本書のおかげで、目から鱗が落ちる快感を何度も味わうことができました。