遥かな年長者、異母兄弟、実弟と、3度結婚した古代エジプトのアルシノエ二世の波瀾万丈の生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1485)】
山梨・富士山麓のシバザクラ、神奈川・箱根の芦ノ湖畔の「山のホテル」のツツジを楽しみました。因みに、本日の歩数は11,911でした。
閑話休題、私たちの知っているクレオパトラ七世は古代エジプトのプトレマイオス朝の最後の女王です。その王朝を興したプトレマイオス一世の娘・アルシノエ二世は、知名度こそクレオパトラに劣るが、その生涯は私たちの興味を掻き立てます。
『アルシノエ二世――ヘレニズム世界の王族女性と結婚』(エリザベス・ドネリー・カーニー著、森谷公俊訳、白水社)は、史実のアルシノエに迫ろうとした力作だが、特筆すべきは、彼女の3度の結婚です。
1番目は、アルシノエは10代半ばで、相手は60歳ほどのリュシマコスとの政略結婚で、3人の息子を儲けています。
2番目は、リュシマコス敗死後の、異母兄弟プトレマイオス・ケラウノスとの結婚だが、アルシノエの目論見とは異なり、ケラウノスによって2人の息子を殺されてしまいます。
3番目は、ケラウノスの許を逃げ出し、故国エジプトに戻り、8歳年下の実弟プトレマイオス二世と結婚します。この時、アルシノエは40歳くらいだったようです。
アルシノエがなぜ3度も、しかも、遥かな年長者、異母兄弟、実弟と結婚することになったのかを考えるには、時代背景を知る必要があります。東西に跨る大帝国を築いたアレクサンドロス大王が急死した後、その領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる部下の将軍たちによって分割され、プトレマイオスはエジプトを獲得します。プトレマイオスのように、それぞれの領土を得て王となった者たちの勢力争い、さらには、プトレマイオス朝における後継者争いの渦中で生きざるを得なかったアルシノエにとって、平坦な人生など望むべくもなかったのです。
「アルシノエ二世(前316年頃~前270年頃または268年)の人生は、極端なまでの浮き沈みに満ちた、劇的かつ冒険的なものだった。その生涯で4つの宮廷とかかわりを持ち、3度結婚し(そのうち2度は兄妹または異母兄弟と)、息子2人を目の前で殺され、自身の生命も危険にさらされて2つの王国から逃亡した。しかし大きな富と安全の中で晩年を迎え、ついには神格化された。エジプトで生まれた彼女は、10代で花嫁となり故国を去った。結婚相手は、当時トラキアと小アジアの一部およびマケドニアの支配者だったリュシマコス。夫が戦死すると、王国の奪取をねらう者たちから、息子3人のマケドニア支配権を守ろうと努めた。この努力を支えるべく、彼女は王位挑戦者のひとりで異母兄弟のプトレマイオス・ケラウノスと結婚したが、この婚姻同盟は息子2人を惨殺されるという結果となり、彼女はエジプトに帰ることを余儀なくされた。母国では、実の弟プトレマイオス二世が父プトレマイオス一世を継いで王となっていた。帰国するとアルシノエはこの弟と結婚した(王朝初の実の兄弟姉妹婚で、こうした結婚は後にひとつの制度となる)。晩年はプトレマイオス王国で傑出した役割を果たし、エジプトで世を去った。生涯の大半にわたってアルシノエは莫大な富を支配し、政治的影響力をふるったが、国内の安定を享受できたのは最後の数年だけである。彼女の経歴の大半は、王位をめぐる激烈で時に暴力的な闘争に彩られている。晩年を覗く全期間、アルシノエはほとんど絶え間なく、王位挑戦者に殺されるか追放されるという恐怖の中で生きていた。・・・アルシノエは自身と息子たち、それに自らの王朝のため、ひたむきに、時には力に訴えても名誉・名声を追求した」。
錯綜し激動する政治世界を切り抜けていったアルシノエの波瀾万丈の物語は、確かな読み応えを与えてくれます。