古田織部好みの茶碗が、師の千利休好みの茶碗とは異なり、型破りでいびつなのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1494)】
ベニサラサドウダン(赤色)、キングサリ・ヴォッシー(黄色)、サワフタギ(白色)、サツキ(橙色、白色)、ゼニアオイ(紫色)、ヒアシンソイデス・ヒスパニカ(スパニッシュ・ブルーベル、シラー・カンパニュラータ。薄青色)、ハルジオン(白色+黄色)、マツバギク(紫色)が咲いています。チガヤの穂が風に揺れています。ハクロニシキの葉が白さを増しています。因みに、本日の歩数は10,994でした。
閑話休題、古田織部好みの茶碗が、師の千利休好みの茶碗とは異なり、型破りでいびつなのはなぜか、また、織部が徳川家康から切腹を命じられたのはなぜか――かねがね疑問を抱いていたが、『古田織部の茶道』(桑田忠親著、講談社学術文庫)が、これらの謎を解いてくれました。
「罪を蒙って堺に帰る利休を、だれはばからず、淀の渡し場まで見送り、慰めのことばをかけたのは、利休の門弟に人多しといえども、織部と、細川忠興だけだった」。
「『古田家譜』には、(豊臣)秀吉と織部の茶に関して、重大なことを伝えている。それは、秀吉は、利休を処罰すると、ほどなく、古田織部に命じ、利休に代わって茶の指南をさせたが、あるとき、織部に向かって、――利休相伝の茶の湯というのは、要するに、堺の町人の茶であるから、武家にはふさわしくない。だから、利休流の町人茶をば、武家流、大名ふうに、改革せよ――と、命じたというのである。これは、織部が利休などとは違って、美濃出身の地侍で、千軍万馬の間を往来し、槍ひとすじで、山城国西ケ岡三万五千石の大名に封ぜられたところの、根っからの武人だったからであろう」。
「利休門下には。織部ほど、師匠と反対な趣向を凝らした茶人は、他に見あたらない。利休一辺倒の茶人たちにとって、織部こそは、小ざかしき反逆者だったのである。・・・しかし、利休門下に人多しといえども、本当に利休の(人まねをせず、創意を凝らせという)教訓を遵奉し、それを実践にうつしたのは、織部一人ではなかったかと、私は思うのである。・・・織部は、利休によって完成された中世ふうの茶事の法式を破り、大名好みの桃山芸術に見られる多様な色彩と豪快な感覚を自在に表現することに成功している。もし、利休が生きていたなら、門弟中、わが道を最も正しく伝えたものは織部だというに、相違あるまい。利休に次ぐ時代の茶の湯の名人は、やはり、織部といえるのである」。
「(元和元<1615>年)5月7日、大坂城をおとしいれ、(豊臣)秀頼以下豊臣氏一族を滅ぼすと、6月11日になって、(織部の家臣の)木村宗喜の(京都放火未遂)事件の責任を取らせるため、古田織部、および、その嗣子の(古田)山城守重広に切腹を命じた。罪名は、大坂がたに内通したというのである。ついで、古田家の財産は没収され、領地は改易となった。主謀者の木村宗喜は、閏6月29日になって、死刑に処せられている」。この時、織部は72歳でした。
「家康から咎めを受けると、織部は、――かくなる上は、申しひらきも見苦し――といって、一言の弁解もなく、切腹して果てたので、世の数寄者たちは、こぞって、その最期のいさぎよさに感嘆したと、いうことである。利休の最期の有様と、一脈、相通ずるものがあった」。「かれの(徳川方とも豊臣方とも分け隔てなく付き合う)自由勝手な行動が家康の怒りをかっていることを、(織部は)充分に承知してのことであろう」。