外山滋比古から、老いを迎える人へ47のアドヴァイス・・・【山椒読書論(523)】
『老いの練習帳』(外山滋比古著、朝日新書)には、老いを迎える人への47のアドヴァイスが収められている。
とりわけ、私の心に残ったのは、この3つだ。
●修行のできた人の心は、ことがあればそよぎ音を立てるが、すぎればたちまち平常心なり。すなわち、復元力のすぐれている竹のようでなくてはならない。「『風、疎竹に来たる。風過ぎて竹声を留めず』という禅のことばがある。まばらな竹林に一陣の風が吹く。竹はさらさら葉をならす。しかし、風が通り過ぎてしまえば竹はもとの静けさに戻って、さらに音を立てない、というのである。修行のできた人の心はこの竹のように、ことがあればそよぎ音を立てるが、すぎればたちまち平常にかえる、という寓意であろう。復元力のすぐれている竹のようでなくてはならない」。
私自身が老いて思うのは、復元力と修正力の重要性である。自分の犯したミスに気づいても、若い時は面子に拘ったり、何らかの理由づけをしたりして、改めるのに時間がかかったが、最近は直ちに修正できるようになった。人生の持ち時間が少なくなっているので、修正すべきはさっさと修正すべきなのである。
●さしさわりのない、それでいて頭を快く刺激するような話をするには、いくらか遠い人の話題がのぞましい。「気のおけない人と食事をしながらの閑談ほどたのしいことはない。・・・そう言っては悪いが、とくにうまいものが食べたいのではない。食事はむしろ二の次、それを伴奏にして話をするのがねらいである。話のおもしろくない会食など価値がないではないか。・・・その昔、スコットランドのエディンバラに月光会(ルーナー・ソサエティ)というグループがあった。さまざまな専門をもった十名ほどの人たちが、月一度、満月の夜に会食、談論風発にときを忘れた。そこからすばらしい発見、発明がいくつも生まれたのが史上はなはだ有名である。われわれ凡人には、にわかにそのひそみにならうことはできないが、食事をしながらのたのしい語らいには特別なものがあるということには、いささか身に覚えがある」。
私も、気が合う連中と食事をしながら議論しているうちに、それまでぼんやりとしていたアイディアが、他人からの刺激を受けて、急に具体的なものに成長したことを、何度も経験している。
●日常使用するものほど、りっぱな器にすべきである。「一山いくらといった安もので間に合わせるが、本当は日常使用するものほどりっぱな器にすべきである」。
私の場合も、高価なものであろうとなかろうと、茶碗などは、気に入っているものを普段使いにしている。割ったら大変だと仕舞い込んで、使う前に死んでしまったら、それこそ勿体ないからだ。