ステージから転落した歌姫・香織の意識鮮明・全身不随の17年に及ぶ地獄の日々・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1783)】
花弁の先端の尖りが小さいフサザキズイセン(グランド・モナーク)を見かけました。
閑話休題、『奈落』(古市憲寿著、新潮社)を私が気に入った理由は、3つあります。
理由の第1――。私にとって一番恐ろしいのは、自分が死んだ後、たった一人、真っ暗な狭い場所に閉じ込められて、いつ訪れるか分からない再生の日を待ち続けなければならない状態を想像することです。『奈落』の主人公・藤本香織が、生きながらにして、これに近い状態に置かれていることに、深い共感を覚えたのです。
理由の第2――。香織の本音、香織が以前から大嫌いな姉、母の本音、そして、香織がこういう状態に陥るまでは嫌いでなかった父の本音が、正直にと言うか、ずけずけと言うか、何の遠慮もなく描かれていることです。著者の古市は、きっと正直な人なのでしょう(笑)。
理由の第3――。これほど、人間の悪意がどぎつく、生々しく描かれたことがあったでしょうか。バルザックの『人間喜劇』を思わせると言ったら、褒め過ぎでしょうね。そして、救いのない結末も気に入りました。
17年前の夏、人気絶頂のシンガーソングライターの香織はステージから転落し、全身不随となってしまいます。意識は鮮明なのに、誰も彼女に意識があることに気づいてくれません。
香織が元気に活躍していた頃、心を通わせ合った男性・海くんが香織を見舞った直後の独り言。「彼女の口元からは腐ったザクロのような臭いがした。絶対に俺が嗅ぐべきではなかったし、もしかしたら彼女自身も気が付いていない臭い。思い出すとまた涙がこぼれて、身体が震える。何だかそれは、死そのもののような気がしたから」。
1ヶ月に亘る眠りから覚め、事故から2ヶ月が経過した香織の、意識鮮明・全身不随の香織の、誰にも理解されない思い。「時間だけが経っていく。私はいつ治るのだろう? その疑問を頭の中で文字にしてみたら、急に怖くなってきた。だってもしかしたら、一生身体が動かないなんてことになるのかも知れない。意識だけは鮮明で、誰にも何も伝えられず、ただ朽ちていく。そんな人生は恐怖でしかない」。
事故から10年後の香織の思い。「だってもう全てが嫌だったから。この数年は、デビュー日が来るたびに勝手に藤本香織名義でコメントが発表されていたし、姉が出した本には私のあとがきが捏造されていたし、ジャズミックスとかヒップホップミックスとか訳のわからないリミックスアルバムが何枚も発売されてしまったし、何ら作った覚えのない曲も私名義で発表されていたし、今も頭は痛いし、首は痛いし、おまけに鼻水は出たままだし、子どもは生めないのにきちんと生理痛は来るし、睫が右目に入ってちくちくするし、テレビはNHKばかりだし、のど自慢とかいい加減もう観たくないし、肺から粘膜をとられた時はとんでもなく苦しかったし、一日に何回もある痰吸引は本当に痛いし、外出できるのは年に一度あるかないかだし、(姉の息子の)翼は意味もなく私の身体を叩きに来るし、姉は私が築き上げたものを無断使用することに全く躊躇(ためら)いがないし、その全てを母は見て見ぬふりをしているし、世間の評価は勝手気ままだし、背中の汗疹(あせも)が痛いし、実の父にはレイプされそうになるし、ちっとも身体は動くようにならないし、今年で事故から10年だし、もちろん歌なんて歌えないし、それでも頭の中で曲は浮かんでくるし、もうね、ただ寿命が尽きることを夢見て生きるのは終わりにしたい」。
劇場の奈落、人生の奈落に落ちて17年目の香織の思い。「姉が憎い。彼女は自分の名声を守り、自尊心を満たすためだけに、6286日間にわたって私をこの部屋に閉じ込めてきた。そして母と父が悲しい。あの姉の言動に対して、見て見ぬぶりをしているだけなのだ。親だから子どもの心がわかって当然なんて死んでも思わないけれど、誰がどう見てもおかしな状況を何であなたたちは是認してしまうのか。蒋先生とか光希くんとか、赤の他人が見ても異常な空間なのだ。いくら私が喋れないからってわかるでしょ。この場所から抜け出したい。ねえ海くん、このささやかな期待さえも傲慢なのかな。今の私はもう赤の他人に希望を託すしかない」。
ところが、これなど、ほんの序曲に過ぎなかったのです。
何ということでしょう。この後、とても信じられない悪意に満ちた展開が香織を待ち受けていたとは!