榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

天皇として即位できなかった皇子たちの悲劇の実例集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1820)】

【amazon 『皇子たちの悲劇』 カスタマーレビュー 2020年4月7日】 情熱的読書人間のないしょ話(1820)

隣家の黄色いジャスミンが仄かな芳香を漂わせています。タチツボスミレ、ハナニラ、ネモフィラ、シバザクラが咲いています。今宵はスーパームーン前夜です。

閑話休題、『皇子たちの悲劇――皇位継承の日本古代史』(倉本一宏著、角川選書)には、『古事記』、『日本書紀』の伝承時代から、律令制成立期、律令制下、さらには平安時代の摂関期から院政期にかけての、天皇として即位できなかった多くの皇子たちが登場します。

即位できなかった皇子たちの政治的背景はさまざまだが、残念なでは済まされない苛烈な未来が待っていた人物も多いことが分かります。天皇位を巡って、激烈な争いが絶えることなく繰り広げられてきたことを思うと、慄然とせざるを得ません。

壬申の乱を巡り、このような記述があります。「(天智の)長男である大友王子の生年は大化4(648)年であるが、当時はただの前大王の子に過ぎなかった中大兄王子は、どうして大王(当時は幸徳)しか接することができないはずの采女から何人もの子を儲けることができたのであろうか。実質的に中大兄王子の正妃的存在であった蘇我遠智娘から大化元(645)年に生まれた鸕野王女が、母の悲劇的な死の後にも、父である中大兄王子が次々と采女と通じていたことに対して、そしてその采女が産んだ『弟』である大友王子に対して、どのような感情を抱いていたかは、壬申の乱への伏線として、鸕野王女(後の持統)の心の中にずっとわだかまっていたとも考えられる」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちました。

一条天皇の妃の(清少納言が仕えた)定子の息子と、(紫式部が仕えた)彰子の息子の関係には、時の最高権力者・藤原道長が絡んでいます。「なかなか彰子が懐妊しない情勢のなか、道長は長保2(1000)年に死去した定子の遺した敦康親王を彰子に引き取らせ、その後見を続けていた。万一にも彰子が皇子を産まなかった場合の円融皇統のスペア・カードとして、道長は敦康を懐中に収めたのである。そしていよいよ、寛弘5(1008)年、『御物怪がくやしがってわめきたてる声などの何と気味悪いことよ』(『紫式部日記』)という状況のなか、彰子は第二皇子敦成(後の後一条天皇)を出産した。彰子は翌寛弘6(1009)年にも、第三皇子敦良(後の後朱雀天皇)を産んでいる。これで敦康親王は、道長にとってまったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて道長と一条との関係も微妙なものとなる」。

「一条としては、第一皇子の敦康親王をまず三条の次に即位させ、冷泉系の三条皇子敦明親王を挟んで、敦成親王や敦良親王の立太子を望んでいたはずである。いまだ若年で、敦康親王を後見していた彰子(当時24歳)や頼通(20歳)は、間に敦康を挟んだとしても、敦成親王の即位を待つ余裕があった。しかし、すでに46歳に達していた道長としては、この時点で敦成を立太子させられないとなると、居貞親王――敦康親王――敦明親王の次までは、とても待てなかったであろう。ただし、敦成親王の立太子には、かなりの困難が予想された。言うまでもなく、定子所生の敦康親王の存在があったからである」。

ところが、道長は権力に任せて、己の野望を実現させます。一条に知らせないまま、一条の譲位と敦成立太子を強行してしまったのです。「この道長の措置には、一条のみならず、彰子が直接的な怒りを表わしたことが、行成の『権記』に見える。敦康親王に同情し、一条の意を汲んでいた彰子は、その意思が道長に無視されたことを怨んだのである」。その後、後一条天皇も道長も、敦康の怨霊に悩まされることになります。