芥川龍之介は木曽義仲が大好きだった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1079)】
我が家の庭で、ハナミズキが咲き出しました。赤い花弁のように見えるのは総苞です。桃色のクルメツツジが一斉に花開いています。隣家の黄色いジャスミンが仄かな芳香を漂わせています。散策中、薄桃色と濃桃色のヤエザクラを見かけました。残念ながら品種名は分かりません。ヤマブキが黄色い花をたくさん付けています。因みに、本日の歩数は10,311でした。
閑話休題、芭蕉が木曽(源)義仲に並々ならぬ親しみを感じていたことは有名だが、芥川龍之介も義仲が好きだったという情報を得て、義仲大好き人間の私は慌てて、『木曽義仲論』(芥川龍之介著、青空文庫)を読み込んだ次第です。
「機は来れり・・・天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に応じたり。而して、彼(義仲)が伝家の白旗は、始めて木曽の山風に飜されたり。時に彼、年二十七歳」。遂に、義仲は、木曽で打倒平家の兵を挙げたのです。
「見よ見よ西海の没落は刻々眉端に迫れる也」。平家の滅亡が迫っています。
「彼は其云はむと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を為す、敢て何等の衒気なく何等の矯飾なかりき」。義仲の愛すべき性格が簡潔に表現されています。
義仲は、たちまちにして平家を京から追い落としたものの、その後、従兄・源頼朝との源氏内部の主導権争いに敗れ、かつての勢いを失ってしまいます。「嘗て、木曽三千の健児に擁せられて、北陸七州を巻く事席の如く、長策をふるつて天下を麾ける往年の雄姿、今はた、何処にかある。嘗て三色旗を陣頭に飜して加能以西平軍を破ること、疾風の枯葉を払ふが如く、緋甲星兜、揚々として洛陽に入れる往年の得意、今、はた、何処にかある。而してあゝ、翠帳暖に春宵を度るの処、膏雨桃李花落つるの時、松殿の寵姫と共に、酔うて春に和せる往年の栄華、今はた、何処にかある」。この「松殿の寵姫」は、義仲の正室となった松殿(藤原)基房の娘・伊子で、義仲との別れの後に久我通親の側室になり、道元を産むことになる上流貴族階級の女性です。
「我木曽冠者義仲が其燃ゆるが如き血性と、烈々たる青雲の念とを抱いて何等の譎詐なく、何等の矯飾なく、人を愛し天に甘ンじ、悠然として頭顱を源家の呉児に贈るを見る、彼が多くの短所と弱点とを有するに関らず、吾人は唯其愛すべく、敬すべく、慕ふべく、仰ぐべき、真個の英雄児たるに愧ぢざるを想見せずンばあらず。・・・彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云うべし。かくして此絶大の風雲児が不世出の英雄は、倏忽として天に帰れり」。義仲の活躍は、僅か4年のことだったのです。そして、欠点、弱点があろうと、芥川は義仲が大好きだったことが伝わってきます。
一方で、天下を治める政治家としては頼朝のほうが断然優っており、また、平清盛が頼朝の先駆的存在であるとちゃんと認めているところは、さすが芥川です。
『平家物語』では、義仲の無骨な立ち居振る舞い、直截な物言いが大仰に描かれ、田舎者と揶揄されています。また、『源平盛衰記』では、京を立ち退く際、未練がましく伊子と別れを惜しんだと記されています。私は、義仲のこのような描かれ方に不満を抱いてきましたので、今回、芥川の義仲論に接して、溜飲が下がりました。私は義仲も、彼の愛妾で、常に彼と共に戦った女武者・巴も大好きです。巴という素晴らしい女性が愛した義仲が、つまらない人物であったはずがないと信じているのです。