武田信玄に関する最新の研究成果が盛り込まれている一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2604)】
ビヨウヤナギ(写真1~3)、ヒエンソウ(チドリソウ、デルフィニウム・アジャシス。写真4~6)、カシワバアジサイ(写真7、8)が咲いています。
閑話休題、『図説 武田信玄――クロニクルでたどる「甲斐の虎」』(平山優著、戎光祥出版)のおかげで、武田信玄に関する知識を深めることができました。
若き信玄が、父・武田信虎を追放した経緯について――。「晴信(信玄)は、父信虎の駿河出立直後の6月14日に動き出す。甲信国境に足軽を派遣して国境封鎖を実施し、父の帰国を封じた。そのうえで、16日に家臣たちに父信虎追放を告知し、17日に躑躅ケ崎館に入った。晴信に対する叛乱は起きなかった。そればかりか、武田家中から一人の反対者も粛清者も出さぬ、戦国史において稀にみる無血クーデターであった。このことは信虎に対する家中の反発や、不人気を反映しているのだろう。そして、その人間性について『信虎は平生悪逆無道なり』とあり、それゆえに身分の上下にかかわりなく、多くの人々が彼のせいで懊悩していたという」。
信玄が戦争捕虜の男女を人身売買したことについて――。「意気消沈した志賀城に、武田軍は8月10日から猛攻を加えた。11日、ついに城は陥落し、笠原清繁父子、高田憲頼父子や清繁の家老志賀平左衛門尉とその兄弟6人、依田一門らあわせて300余人が戦死した。また、城内にいた多数の男女が捕虜となり、彼らは人身売買されたことはあまりにも有名である」。
信玄の徳川家康観について――。「信玄は家康を見くびっていたとしか思えない。実は、信玄は家康を甘く見ていた節がある。いや、格下の大名として侮っていたというのが適切かもしれない。信玄の家康観を知る史料として、永禄12年3月、武田・織田氏間の交渉を担う家臣の市川十郎右衛門に宛てた書状がある。その一節に『当時家康者、専信長被得異見人ニ候』(いま現在、家康はもっぱら信長の見解に従う立場にある人物だ)とあることからも判断できる」。
最新の研究成果が随所に反映されているので、実に読み応えがあります。