榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

源平争乱の前半は平氏にとって不利な気象、後半は源頼朝にとって不利な気象だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2966)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年5月31日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2966)

トケイソウ(写真1、2)、ビヨウヤナギ(写真3、4)が咲いています。カルガモの親子(写真5~7)、ニホンカナヘビ(写真8、9)、ヒダリマキマイマイ(写真10)をカメラに収めました。我が家の庭では、ナツツバキ(写真11)が咲き始めました。これから長期に亘り、開花と落花が毎日繰り返されることでしょう。アジサイ(写真12~14)、ガクアジサイ(写真15、16)が咲いています。キジバトの番いがモクレンに巣を作り始めたようです。

閑話休題、『平氏が語る源平争乱』(永井晋著、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)は、負けた平氏の側の視点から源平争乱が記されている点が類書と異なっているが、もう一つユニークな特徴を備えています。

それは、当時の気候変動が源平争乱に与えた影響に注目していることです。

「米からみた日本列島は、どこかの土地で豊作の条件が調うと、どこかの土地が凶作になった。緯度の低い西日本は温暖な気候には恵まれていたが、大きな平野や山脈も少なく、農業用水の確保という点が不安定要因となっていた。平年より高温な気候では水不足による干魃となり、寒冷な気候では水が十分に確保されて豊作となった。緯度の高い東日本は、関東平野を流れる大河、奥州の山脈の間を流れる大河など、農業用水は十分に確保されていた。高温な気候では気温・水温の上昇によって豊作となるが、寒冷な気候では日照不足による成長不順、水温低下による冷害、長雨による洪水などの被害を受けて凶作となった」。

「(養和の)飢饉の悲惨さは鴨長明の随筆『方丈記』に詳しく書き残されている。京都は、西国の飢饉および東海道・東山道との物流の遮断による年貢納入の激減・途絶で、食料不足に陥った。それは、京都の街に住む庶民を襲った。近江・美濃で反乱軍と戦っている追討使でさえ、兵粮の不足を訴えていた。京都に集まる米の絶対数が足りていないのである。このような状況が、養和元(1181)年から寿永元(1182)年にかけて、内乱を沈静化させる。軍勢を動かしたくても、食料のない土地に軍勢を派遣すれば自滅するのは目に見えていた。そのような中で、朝廷側の勢力圏に属しながら飢饉の被害を受けていない地域があった。北陸道である。養和元年から寿永2年にかけて、この地域で追討使と木曽義仲の戦いが続いていく」。

「治承寿永の内乱(源平合戦)の時代は、寿永元年までは西日本が干魃による飢饉の被害を受け、寿永2年以後は東日本が冷害による飢饉の被害を受けた。当時の日本は、土地台帳はしっかりとしていて、国司や荘園領主が納める年貢の額を台帳(国司なら田文、荘園なら勘定帳)で管理していたが、台帳に記載されるのは納税責任者までで、国家に人口を把握する意識はなかった。それらの数字をまとめる民部省は機能を失っていたので、足かけ6年に及ぶ内乱に飢饉が重なって、国家として生産力がどこまで落ち、人口がどこまで減ったのかを知る資料はそもそも作られなかった。地方の厳しい状況は、出陣した追討使が送る報告書に記載された兵粮不足の状況、現地の荘園の納税責任者が中央の荘園領主に送る年貢を納められない理由を述べた弁明の書類などによって明らかになる」。

「養和の飢饉が、平氏の軍事行動を規制する大きな要因となっていたことは間違いない。一方、養和の飢饉を起こした温暖な気象は、東日本に豊作をもたらす条件となるため、鎌倉を動かない源頼朝や平泉を動かない藤原秀衡に有利に作用した。源頼朝は鎌倉に武家政権の基盤を創り、奥州藤原氏は強大な軍事力を背景に源頼朝に本領を奪われた佐竹氏を支援していた。・・・豊作の東日本を治める源頼朝と藤原秀衡、飢饉の影響を受けていない北陸を治める木曽義仲、飢饉で疲弊している西国を治める平氏、この四者の中で一番分が悪いのは、平氏であった」。

「ところが、寿永2年から元暦元(1184)年にかけて、京都は大雨で悩まされることになった。これは、西日本に干魃を起こしやすい気象条件から、東日本で冷害を起こしやすい気象条件に気候が変化したことを意味している。西日本は米の生産に適した気候に戻っても、飢饉と戦乱によって人口が減り、田畑や用水といった灌漑施設も荒廃していたので、内乱以前の収穫に回復するには勧農(農業振興政策)が必要であった。ただ、西日本が最悪の時期を脱したことは、確認しておいてよいだろう。・・・飢饉の中で戦争を続ける苦しみを、今度は追討する側の源頼朝が味わうことになった。その最前線に立たされたのが、平氏追討を命じられて山陽道に軍勢を進めなければならない源範頼である」。

源平争乱の前半は平氏にとって不利な気象、後半は源頼朝にとって不利な気象だったという、農業気象に着目した指摘は、大変勉強になりました。