私の『ペスト』読解が間違っていないか気になって、『アルベール・カミュ ペスト』を手にした・・・【情熱の本箱(322)】
読み終わった『ペスト』(アルベール・カミュ著、宮崎嶺雄訳、新潮文庫)の私の読解が間違っていないか気になったので、敬愛する中条省平の『アルベール・カミュ ペスト――生存をおびやかす不条理』(中条省平著、NHK出版・100分de名著)を手にした。
中条と私の読解に大きなずれがないことが分かりホッとしたが、死刑反対という主張を、私が見逃していたことを教えられた。
本書は、これ以外にも、さすが中条省平と唸らされる鋭い指摘に満ちている。
戦争――
「(第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦などの)戦争が、カミュの反戦と非暴力の思想を形成する大きな契機になったのはまちがいありません。戦争で父を失ったカミュは、アルジェの下町で、貧困と窮乏のなか幼少期を過ごしました」。
宗教――
「古代ギリシャ人の、自然と調和した汎神論的な世界観への共感と憧れは、地中海人カミュの精神と肉体の根底に息づくもののような気がします」。
「自分が神という観念をどうして拒否しなくてはならないのかという、リウーなりの回答がなされます。・・・つまり、神という観念を信じてそれに頼ってしまうと、結局人間の責任というものがなくなってしまう。ここでリウーは、神ではなく人間の側に立つために、無神論を選択しています。・・・タルーのいう『理解すること』と、リウーの『明るく(明晰に)見きわめること』という行動様式(モラル)がここで通じあい、二人はこの点で一致して、行動にむけて手をつなぐことができました。それは、神なき世界での実践ということです」。カミュの宗教観に強い共感を覚える。
『ペスト』のテーマ――
「人間が不幸とどう戦うかというこの物語は、戦争の只中で書かれ、ペストという災厄が戦争という現実と重ねて描かれていますが、それを地震のような天災や、目に見えない放射能の恐怖に置き換えて読むことも可能なのです」。
「『ペスト』は戦争が終わってわずか2年後の刊行ですから、戦争とその残響を抜きにしては語れない作品です。これまでしばしば語られてきたのは、戦中のレジスタンスとの関係です。ペストとはナチス・ドイツの隠喩であり、ペストとの戦いにはカミュの対独レジスタンスの経験が反映しているという読み方です。しかし、これはおそらく倒錯した読み方です。最初にレジスタンスという英雄的な主題を描こうという意図があったわけではなく、むしろ逆で、まず、災厄が人間を襲うことの不条理性とその恐怖が、出発点になっていると思うのです。そういう人間の条件の困難さ、人間は世界の不条理によって悲惨な目に遭っているという認識の集約が、たとえば戦争であり、ここではペストであって、その衝撃が彼に『ペスト』を書かせている。結果的に登場人物たちの行動がレジスタンスのように見えたとしても、戦中のカミュのレジスタンス経験を反映していると考えてしまうと、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまいます。もちろん明らかにカミュ自身の経験に由来する挿話もありますが、世界の不条理が人間を襲う最も典型的な例として天災があり、それを具体的に『ペスト』という形で描くことで、人間がその不条理をどう乗りこえることができるか、あらためて問い直そうとしたと考えるべきでしょう」。
「ペストという災厄が表すものは、天災のみならず、戦争をはじめとする人間の作りだす不条理も含んでおり、すなわち、人間から自由を奪い、人間に死と苦痛と不幸をもたらすものすべての象徴です。タルーが語った死刑や革命の暴力、殺人、さらには全体主義や恐怖政治、絶望を受けいれそれに慣れてしまう状態、そして不可視の放射能もまた、そのような不条理に含まれるはずです」。中条の見解に全面的に賛成である。
目指したもの――
「カミュは急進的な『革命』ではなく、あくまでも人間的な尺度をもった『反抗』にこだわりました。革命を強風に、反抗を樹液に喩えて、人間は後者によって粘り強く不条理に立ちむかうべきだと説いたのです。たとえその反抗が基本的には敗北に終わるものだとしても、ギリシャ神話のシーシュポスのように、山頂まで運びあげては転がり落ちる岩を何度でもまた運びあげながら、その運命を神のものから人間自身のものに変え、そこに幸福を見出すことさえ可能だというのです。それは不条理との戦いにおいて、敗北や挫折や失敗が人間の条件であるとしても、リウーやタルーやグランや、変化したあとのランベールのように、『自分にできることをする』ことのなかにこそ、人間の希望があるということではないでしょうか」。この部分を読んだだけでも、本書を手にした甲斐があるほど、大いに勇気づけられた。
不条理の哲学――
「戦中の困難のなかで書き、刊行した『異邦人』と『シーシュポスの神話』の2冊で、カミュは『不条理の哲学』をうち立てました。戦争の苦難のなかで、生きるための仕事と、非合法のレジスタンスと、精力的な執筆活動とを同時に成立させていたのです。考えてみればこれはすごいことで、どうしても書きたいという強い気持ちがなければ不可能な生き方です。この時期のカミュの不条理論には、部分的にはよく分かるが、全体としては何をいいたいのかが分かりにくいという特徴があります。カミュはまだ『世界の不条理』と、それに対抗する『人間の不条理』とをごっちゃにしているからです。私なりに整理してみると、世界というのはまぎれもなく不条理なもので、戦争もあり、天災もあり、ペストのような疫病もあり、決定的な災厄として人間に襲いかかってきます。それは不条理、つまり、理不尽で、ばかげている。そして、そんな世界の不条理性に気づいた人間が、人間も不条理であってかまわないのではないか、とその不条理をみずから実践してしまうことがある。『異邦人』のムルソーの場合のように、母親が死んだって悲しまなくていいじゃないか、太陽のせいで人を殺してもいいじゃないか、と人間の生き方に不条理性を拡大していってしまうのです。これがおそらく、人間が不条理に対応するときの第一段階です。自殺やニヒリズムに陥る一歩手前で、どうにか踏みとどまっているという状況です」。
「そんな不条理の第一段階のあとに、そういう自己をいったん客観視して、世界の不条理に気づいた人間の不条理性にさらに気づいてしまった人間が、ではその不条理をどう乗りこえることができるのか、と考える方向が生まれてきます。これが『ペスト』以降の第二段階です。そこでは世界の不条理と人間の不条理を分けて考え、そのように不条理を二重に意識した人間の生き方や行動の仕方を探求するという姿勢が打ちだされてきます。・・・世界と人間の不条理の認識の先で人間はどう生きるか、という第二段階の問いに対する答えの試みが、『ペスト』なのです。この作品は、ムルソーが唯一の主人公であった『異邦人』とは異なり、群像劇である必要がありました。つまり、人間にはいろいろな生き方があって、それぞれのいいところや悪いところを見定めた上で、はたしてどういう生き方が可能かを多面的に考えていく。そのためには、ひとりの人間だけに寄りそって、その人物にすべてのドラマトゥルギー(作劇術)を集中し、その心理や行動を解剖していくという『異邦人』の小説作法では限界があります。世界と人間の多様性を描くには、さまざまな人物の視点と行動が描かれる群像劇でなくてはなりません。すると当然それは長篇になり、場面転換も多く含みますから、小説家としての技術的実験を強いられることになります。小説の方法論としては、ひとりの人間に寄りそう近代小説の典型的な方法ではなく、むしろ19世紀でいえばバルザックやドストエフスキーのような、多くの人物の視点と行動が絡みあう作品に近い方法です。そうした小説が20世紀に可能か、という挑戦でもあったのでしょう。カミュは5年の歳月を費やして、あえてそのような作品を完成させました」。
『ペスト』の執筆――
「1945年の終戦を迎えても『ペスト』の執筆は終わらず、この小説が完成し、出版されたのは終戦から2年経った1947年でした」。
『ペスト』本体を読まないで済まそうという人にも、これから『ペスト』を読もうという人にも、『ペスト』を読んだ後に、自分の読解が間違っていないか確認したいという人にも、有益な、収穫の多い一冊である。