脳梗塞を発症したメイ・サートンが病と老いを見詰めながら綴った日記・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1891)】
トケイソウが白い花を咲かせています。ナスが紫色の花と実を付けています。ジャガイモがたくさん収穫できたようです。アリたちが獲物のハエを巣に運び込んでいます。
閑話休題、『74歳の日記』(メイ・サートン著、幾島幸子訳、みすず書房)は、軽い脳梗塞を発症したメイ・サートンが、自らの病と老いを見詰めながら綴った1年間の記録です。
「体が不自由になってよかったことがひとつだけある。何人かの友人が闘っている病気について、自分が健康だったときよりすっと気にかけ、共感できるようになった。日々くり返される小さな喜びや失望を分かち合うことで、互いにうちとけた気持ちになれる。元気いっぱいで健康そのものの人というのは、まったく役に立たない! 年をとることがどれだけ勇気を必要とするのか、初めてわかった気がする。たった1年前に難なくできたことができなくなるというのが、どんなに腹立たしいかということも」。
「ふと気づいたのだけれど、若さとは、自分の体のことを気にしないでいられるということ。それに対して老年とは、多くの場合、何かしらの体の不調や苦痛を意識的に克服することと関係している。年をとると、自分の体のことを強く意識するようになるのだ」。
「昨晩はベッドのなかで、雨の音を聞きながら長いあいだ眠れなかった。そして最近、いかに自分をもてあましてきたかについて考えていた。かつては詩の朗読会に出かけたり、遠くから訪ねてくる多くの友人たちに会ったりする合間の、独りでいる時間――『孤独』――がエネルギーの源だったのに、今は『孤立』がそれに取って代ってしまった。今の私はまわりから見捨てられて、寂しく暮らしている。ピエロ(=愛猫)がときどきニャーニャー鳴いては『どこにいるの? 僕は寂しいよ!』と訴えるように、私も鳴きたくなる」。
退院して、「驚きだ――まだ半信半疑だけれど、たしかに元気になったし、元の自分を取り戻すことができた。カレン・オルチとその友だちをなんとかランチに招待できて、とてもうれしい」。
「朗読会ツアーに出ようと決めたことで舞い上がっている――本格的な老齢への急速な下降は止まったのだ! ツアーに出ても大丈夫という自信もある」。
「昨日はすっきり晴れてひんやりと涼しく、申し分ない天気だった。そして今日もまた、あらゆるものがキラキラと輝きを放ち、空気にはほんのかすかな秋の兆しが。庭に出て1時間ほど、楽しく作業」。
「元気を回復した今、春から夏になってもずっと、ついこの前まで感じていた強烈な寂しさはもうない。なぜ孤独だったかといえば、たくさんの友人たちがやさしくしてくれて、心配してくれていたにもかかわらず、私という存在の真ん中に開いた穴を埋められる人は誰もいないから――その穴を埋められるのは自分だけ、自分が健康になることによってだけなのだ。だから寂しかったのは、本質的には自分自身を失って寂しかったということ。毎日の健康なリズムを取り戻し、仕事もできるようになった今、全然寂しいは思わない。午後には手紙を書かずに外に出て庭仕事をし、ひと仕事終えて泥だらけになり、どこかほっとした気持ちで家に入って、お風呂に入る。書斎の混乱にもそれなりの意味が生まれ、返事をもらえない人(=読者)がどんなにいようとも、さほど大きな問題ではなくなる」。
「このところ毎晩、湧き水のように新鮮で渇きを癒やしてくれる本に没頭している」。
「2月に入ると、午後の光が世界に見ちがえるほどの変化をもたらす。9月以降、気づいたことのないやさしい光。夕方5時を過ぎてもまだ残っている光。パステルブルーの空には小さなラベンダー色の雲が浮かび、白い雪で覆われた地面は光が消えていくにつれて青く色を変え、灰青色の海はしだいに暗さを増していく。今日の午後はやるべきことをすべて棚に上げて。1時間、机でロバート・フランシスの詩を読んで過ごす」。
巻末近くに、5歳時のサートンの写真が掲載されているが、その賢そうで可愛らしいこと!