韓国・朝鮮に関する疑問に答えてくれる本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2223)】
スイレン(写真1~3)、アジサイ(写真4、5)、バイカウツギ(写真6)、スイセンノウ(写真7、8)、シャクヤク(写真9~11)が咲いています。因みに、本日の歩数は12,101でした。
閑話休題、『これならわかる韓国・朝鮮の歴史Q&A(第2版)』(三橋広夫著、大月書店)は、韓国・朝鮮に関する私の疑問に答えてくれました。
●朝鮮王朝をたてた李成桂(イソンゲ)という人について教えてください。
「高麗末期には倭寇のために財政が苦しくなり、役人の給料も滞るほどでした。・・・倭寇を相手に活躍した高麗の武将の一人に李成桂がいます。・・・力をたくわえた李成桂のもとには、これまでの政治のやり方に不満をもつ儒学者たちが集まり、新しい秩序をつくろうとしました。・・・1392年、李成桂は明に使いを送りました。明の皇帝は『国号を朝鮮とすれば長く栄えるだろう』としたので、朝鮮と名のりました。朝鮮国の成立です」。
●両班(ヤンバン)とはどういう人たちですか。だれでもなれたのですか。
「両班とは高麗時代につくられた制度で。文班(文臣)と武班(武臣)をあわせて両班とよびました。もともとは役人のことでしたが、のちに役人になれる身分をあらわすようになりました。役人になるには、科挙という(非常にむずかしい)試験に合格する必要がありました。・・・庶民はとても合格することはできないようになっていました。科挙は両班が独占していたのです。両班は、役人として政治の実権をにぎるだけでなく、しだいに広大な私有地をもつ経済的な支配者ともなっていきました。・・・両班や中人(実用的学問を担当する役人)の下には農・工・商の平民がいました。彼らは常民といわれました。・・・さらに、この下には賤民とよばれる人びとがいて、売り買いされました。このように、朝鮮はきびしく身分がさだめられた国でした」。
●有田焼をはじめた李参平は、どんな事情で九州にわたってきたのですか。
「有田焼は、李参平がはじめたものでした。ここで当時の朝鮮とほぼ同じ土を発見し、生活用の磁器を焼いたことにはじまるとされています。1592年に釜山に上陸した鍋島直茂軍は、加藤清正軍とともに南原から全州を北上して公州に向かっていました。このとき山道に迷った鍋島軍の道案内をしたのが、李参平でした。侵略の失敗によって鍋島軍が撤退するときに、李参平が朝鮮側からしかえしされることを心配して、鍋島は日本に来て家業の製陶を続けるようすすめたと、、鍋島藩の記録にはあります。薩摩焼、萩焼など多くの陶磁器は、このときに連れてこられた陶工たちによってはじめられました」。
●光州事件は、韓国人ならだれでも知っているのですか。
「だれでも知っています。テレビドラマにもなりました。維新体制でゆるぎない体制を築いていた朴(正熙)大統領が、会食中に、部下に射殺される事件が起きました。長く続いた独裁政権に反対する運動が高まるなかでのできごとでした。朴大統領の死によって独裁体制が終わり、『民主の春』が来ると人びとは期待しました。しかし、事件後まもなく、非常戒厳令が布告され、人びとの権利はおさえつけられたままでした。維新体制の重苦しい雰囲気を吹き飛ばそうと、人びとは次つぎに改革を要求しはじめました。・・・こうした事態の進展をおそれた軍部は、政治家の金大中をはじめ学生や労働運動のリーダーなど数百人を非常戒厳令違反で逮捕しました。そして、非常戒厳令の全国への拡大と、いっさいの政治活動の禁止、国家の封鎖、大学の休校を命じました。前年の12月に軍内の実権をにぎった全斗煥少将が引き起こした事実上のクーデタでした。5月17日のことでした。翌18日、光州の全南大学校ではおよそ600名の学生が『非常戒厳令を解除せよ』『金大中氏を釈放せよ』などとさけびながらデモをくり広げました。多少の小ぜりあいがあったものの、行進する学生に市民のあいだから拍手がわいたりしていました。その翌日には、1万5000人もの人びとが整然とデモ行進をしました。そこへ突然、ソウルから送りこまれた軍隊が襲いかかったのでした。市街へ通じる通信網や交通を遮断したうえで、鎮圧をはじめました。学生や市民を無差別に攻撃する戒厳軍の最初の犠牲者は、耳の聞こえない障がい者でした。彼はデモに参加していないと説明することもできずに、こん棒で殴り殺されたのでした。そして、動員された2万の大軍がいっきょに光州市を制圧しました。この事件では、光州市民70万人のうち30万人がデモに参加したといわれます。そして、2万人の死傷者と2000名の逮捕者を出しました」。
●光州事件によって民主化運動は弱まったのですか。
「当時韓国では、この事件は学生の不法デモによって混乱が引き起こされ、放火や略奪が広がったものだと報道されました。学生にそそのかされた市民が武装して暴動に発展したため、軍が介入し、平和と秩序が回復できたというのです。もちろん、軍部の発表をうのみにしたものでした。そして、1980年に開かれた軍法会議では、この暴動を扇動したとして金大中たちに死刑が宣告されました。しかし、国際的な非難もあって死刑は執行されませんでした。・・・(大統領に選出された全斗煥が強権政治を強行したが、次の次の金泳三大統領時代に)強権政治の影が消え、民主化が進むにつれ、光州事件の真相もしだいに明らかにされていきました。そのなかで、光州の人びとを弾圧した軍部や、韓国軍の最高指揮権をもつアメリカも事件を容認したとして、批判されるようになりました」。