気球で北極点を目指した探検隊3人が生還できなかった謎に挑戦・・・【山椒読書論(559)】
『北極探検隊の謎を追って――人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったのか』(ベア・ウースマ著、ヘレンハルメ美穂訳、青土社)には、読み始めてから最後のページまで、激しく興奮させられた。
未だ誰も北極点に到達していない時代、極地探検は国家の威信がかかった英雄的行為であった。19世紀末、気球で北極点を目指したアンドレー探検隊3人――サロモン・アウグスト・アンドレー、ニルス・ストリンドベリ、クヌート・フレンケル――は、出発から3日後に北極海の薄氷の只中に不時着。それから3か月に亘り、湿気と寒さに晒されながら、重さ数百キロのそりを引いて氷上を歩き、漸く無人島のクヴィト島に辿り着く。ところが、クヴィト島に上陸して5日目には、それまで毎日書かれてきたアンドレーの日誌の記述が途絶える。食料は大量に携えていたし、暖かい衣類も、きちんと動く猟銃もあり、弾薬も数箱分残っていた。にもかかわらず、3人は、そりに積んだ荷物もろくに解く間もなく亡くなってしまう。
33年後、偶然、3人の遺体がクヴィト島で発見される。「クヴィト島で凍りついていた日誌のページは解凍され、適切に処理されたので、なにが書かれているかはいまでも読むことができる。野営地跡で見つかった写真のフィルムも、30年以上雪に埋もれていたにもかかわらず、無事に現像することができた。だが、日誌の記述があり、隊員が氷上でみずから撮った写真があってもなお、アンドレー探検隊の物語がどんなふうに終わったのかという謎はまだ解明されていない。3人がクヴィト島に上陸したとたん、なにかが起きたのだ。3人が書き記していない、なにかが。1897年からずっと、数々の作家やジャーナリスト、医師、極地探検家が、真相をつきとめようとしてきた。だが、3人の死因について仮説を立て、それが科学的に立証できた人はひとりもいない」。
この謎を解くために、著者のベア・ウースマは医師となり、現地まで調査に行くのだから、並みの女性ではない。3人の死因については、一酸化炭素中毒説、海藻スープでの食中毒説、ホッキョクグマ肉を食べたことによる旋毛虫症説、アザラシの肝臓を食べたことによるビタミンA過剰症説、アザラシ肉または魚の缶詰を食べたことによるボツリヌス症説、低体温症説、缶詰による鉛中毒説など多くの仮説が提出されてきたが、著者の仮説が一番説得力がある。
その説は、こうだ。1897年10月9日、3人の食料のアザラシの肉を狙ってホッキョクグマがテントに近づく。ストリンドベリとフレンケルが大声を上げてホッキョクグマを追い払おうとするが、襲われてしまう。「ストリンドベリがホッキョクグマからわずか数メートルの距離まで近づくと、クマがアザラシ肉からふと顔を上げ、視線を移す。驚いているように見える。次の瞬間、後ろ足で立ちあがる。最初の一撃でストリンドベリが倒れる。獲物が倒れてしまえばあとは簡単だ。ホッキョクグマはストリンドベリの頭をがぶりとくわえ、牙を立て、ぶんぶん振る。フレンケルがクマに駆け寄り、大声をあげ、手近なものを投げつける。猟銃はボートに置いたままで手が届かない。アンドレーは自分の猟銃を構えるが、ストリンドベリに弾が当たってしまうのが怖くて、なかなか狙いを定められない。それでも一発目を宙に放つと、クマはその鋭い音に驚き、獲物を手放してのそのそ去っていく」。
「フレンケルがうめいている。彼もやられたのか? ほら、おいで、テントの中で横になりなさい。アンドレーはモルヒネと、水の入った瓶を出してくる。3錠。さあ、のみこむんだ。寝袋に入りたまえ。寒いだろう」。
「夜が明けると、フランケルの容体は悪化している。うめき声はもう、かすかな泣き声のようなものでしかない。クマが戻ってきた場合にそなえて、一晩じゅうテントの外で見張りをしていたアンドレーは、いま、ストリンドベリのほうへ歩いていく。筋肉のいっさいはたらかなくなった人間の体は、引きずるのも重い。ときおり体を手放して、ゆっくり息をつかずにはいられない。さして遠くへは運べず、最初に目についた岩のすきまで満足するほかない。・・・テントに戻ると、フレンケルの声がやんでいる。彼はぴくりとも動かない。そして、すっかり冷たくなっている。・・・(アンドレーは)この島の名すら知らない。ホッキョクグマはかならず戻ってくる。しかも一頭しかいないわけではなく、あれが最初の一頭だったというだけだ。これから4か月、彼はひとりきり、完全な暗闇の中で過ごすことになる。次に太陽が昇るのは2月の末だ。ここを去る日は、もう来ない。春になってから、スピッツベルゲン諸島にある補給基地まで、ひとりきりで荷物とボートを載せたそりを引いて歩いていくのは、とても無理だ。これからずっと、死ぬまで毎日、ホッキョクグマの襲来を警戒しつづけなければならない。不意を突かれる日が、いつか、かならずやってくる。・・・サロモン・アウグスト・アンドレー、王立特許登録庁に勤務する上級技師、もうすぐ43歳になる彼は、絹布のテントの上の岩棚にひとり座っている。ホッキョクグマの威力はもう見せつけられた。弾をこめた猟銃は左側に置いてある。ズボンの右のポケットに弾薬が7つ。ガラス管から出したモルヒネの錠剤が4つ。死にたくない。さあ、のみこむんだ。彼は、ストリンドベリの墓をじっと見つめている。目を閉じる。また目を開ける。ストリンドベリの墓。彼は目を閉じる」。
書評を書き終えた今も、未だ興奮が収まらない。