4世紀半ばまでは、九州王権(邪馬台国)、ヤマト王権、出雲勢力が並立していた・・・【山椒読書論(560)】
『謎の九州王権』(若井敏明著、祥伝社新書)を読み進めながら、何度も大きく頷いてしまった。若井敏明の主張は、私の考えと概ね一致するからである。
著者の主張をまとめると、こういうことになる。
●日本の史料では、ヤマト王権と九州勢力の接触は4世紀にならないと認められない。3世紀に九州諸国を統括していた倭王・卑弥呼の都である邪馬台国は畿内の大和ではなく、九州に所在した。
●2世紀末頃から4世紀半ばまでは、政治的まとまり――纏向を王都として、畿内周辺に支配を広げていたヤマト王権、出雲を中心として四隅突出型墳丘墓を造営した出雲勢力、九州諸国の連合体の九州王権(邪馬台国)など――が、日本列島の各地に存在していた。
●3世紀前半頃、邪馬台国を王都とする政治的まとまり(九州王権)が、筑前・筑後・肥前・豊前・豊後にかけての北部九州に存在していた。
●九州を領土とする王朝が弥生時代初期から7世紀末まで存在したとする古田武彦の九州王朝説とは異なる。
●邪馬台国は、地名の一致から、筑後の山門地方(現・福岡県みやま市辺り)に所在した。玄界灘沿岸ではなく、有明海沿岸の筑後平野に位置していた。
●邪馬台国連合内には、玄界灘沿岸諸国と有明海沿岸諸国という地域差があった。狗奴国内部でも、北部の菊池周辺の国々と発祥地の球磨川流域の国々の間に地域差があった。
●九州王権が伸張・展開していた頃、九州を離れ新天地で新しい王権を形成した人々もいた。ヤマト王権は、そのような集団の一つが作った王権である。ヤマト王権はやがて支配地域を広げ、日本列島全体に勢力を伸ばしていった。神武天皇の故地は遠賀川下流であった。
●景行天皇の九州遠征の結果、日向・大隅・薩摩以外の遠征地域には、中央豪族を任じて国造制が施行された。北部九州を包囲する形で、ヤマト王権は九州の地方支配組織を整備した。九州では、ヤマト王権が設置した国造(特に豊前地域)と、北部九州の王権が併存する状況が半世紀ほど続いた。
●仲哀天皇と妻・神功皇后の九州平定事業により、367年、九州王権はヤマト王権に征服され、邪馬台国は滅亡した。