榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ヤマト王権は奈良で発祥し徐々に成長していった地域集団で、北部九州の邪馬台国とは関係なかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1871)】

【amazon 『ヤマト王権の古代学』 カスタマーレビュー 2020年5月28日】 情熱的読書人間のないしょ話(1871)

ハイビスカス(黄色+橙色)、キダチヤハズカズラ(ツンベルギア・エレクタ。紫色、青色)、サンタンカ(赤色)、キダチセイベゴニア(淡桃色)、ブーゲンビレア(花は白色、赤紫色のは苞)の花が咲いています。ヒトデカズラ(フィロデンドロン・セローム)の赤紫色の仏炎苞が目を惹きます。

閑話休題、『ヤマト王権の古代学――「おおやまと」の王から倭国の王へ』(坂靖著、新泉社)は、考古学と文献学を融合させた力作であるが、とりわけ刺激的なのは、次の3点です。

第1点は、邪馬台国北部九州説に立つ著者が、3世紀後半に奈良で発祥し、周囲の勢力を傘下に収めることで徐々に成長していったヤマト王権は、2~3世紀の北部九州の邪馬台国とは関係ないと喝破し、それを考古学的証拠で証明していること。著者は「ヤマト王権」を「広い意味ではなく、奈良盆地東南部・中央部という限定された一地域で発祥した王権」と定義しています。「ヤマト王権の『王』=倭国の『王・大王』と考える研究者が大半であるが、本書においては同義ではないことに注意をされたい」。

「邪馬台国北部九州説は、卑弥呼を共立した29ヵ国が、北部九州に留まるというものだ。(土器編年の)庄内式期に倭国の統合は少し進んだものの、邪馬台国とヤマト王権は別個の存在であると考えるものだ。諸国が分立していた時代が長くつづく。私は、邪馬台国北部九州説にたつ」。

「纒向遺跡は近年、邪馬台国の所在地論争においても欠かせないものとなっているが、邪馬台国の時代(庄内式期)の遺跡範囲は狭く、大阪平野や北部九州のそれにおよばない。纒向遺跡は、『おおやまと』古墳群が形成される時期(土器編年の布留式期)に集落の規模が大きく拡大する。『おおやまと』古墳群の被葬者であるヤマト王権の歴代の王が居住し、ここで政治や祭祀をおこなっていたことが遺跡のありかたから証明できる。まさに、纒向遺跡においてヤマト王権が発祥し、ヤマト王権の『王都』となったのである。権力の源泉が、弥生時代に育まれた唐古・鍵遺跡を中心とした奈良盆地中央部・東南部の豊かな生産にあり、中国・朝鮮半島および日本月桃各地と対外交渉をおこなうことによって、日本列島各地に影響力をおよぼすことになる。限定された一地域の地域集団が、大型古墳を造営する政治的集団としてここに成長する。本書では、この限定された一地域の地域名を古墳群の名称から『おおやまと』地域、地域集団を『おおやまと』古墳集団と呼ぶ。つまり、この『おおやまと』古墳集団こそが、弥生時代の地域集団を遡源とし、古墳時代に政治的集団としえ成長したヤマト王権の出自なのである」。

第2点は、地域集団に過ぎなかったヤマト王権が、どのようにして勢力圏を拡大していったのか、そして、遂には倭国という強力な政権を樹立するに至ったのかが、克明に記されていること。

「ヤマト王権は奈良盆地で最初に広域支配を実現したが、その直接の支配領域は『おおやまと』地域に限定されていた。その意味においては、この段階のヤマト王権の王は『おおやまと』の王である。こうした地域集団は奈良盆地内に割拠していた。そのなかで、ヤマト王権は奈良盆地内の地域集団の仲介を得て、やがて奈良盆地北部の政治的集団(佐紀古墳集団)と一体となり、その支配領域を広げていった。奈良盆地北部の佐紀古墳群集団の王と、『おおやまと』の王が併立しながらヤマトを統治することになる。地域支配を貫徹した二人の王が併立することによって、ヤマト王権の広域支配が実現し、ヤマトの王となったのである」。

「さらに、5世紀には大阪平野(カワチ・イズミ)の地域集団と結合し、大きく支配範囲を広げるのである。ここでヤマト王権の王が、ようやく中国の冊封体制のもとで倭国の王となる。このように、ヤマト王権の王は、国土の統一を最初に成し遂げたわけではなく、徐々に各地の王に対して影響力を高めていったのである。ヤマト王権は、その地理的優位性と高い生産力を継承しながら、政治的・祭祀的・軍事的・経済的に卓越した存在となって、倭国の統治をおこなう政治権力機構に発展していったと考えられる」。

第3点は、邪馬台国大和説がその有力な論拠の一つとしている三角縁神獣鏡に関する小林行雄の仮説が、坂によって論破されていること。

「小林行雄氏によって『魏から卑弥呼に下賜された三角縁神獣鏡が、某所で保管され伝世し、古墳の成立とともに大和政権(ヤマト王権)から各地の首長に配布された。各地の首長は、三角縁神獣鏡の同笵鏡を分有することによって、新たな権威を与えられた』という仮説(1961年)が提示されたことはよく知られるところだろう。小林説の成否をめぐる論争は、30年以上つづけられているが決着をみていない。・・・三角縁神獣鏡は、その文様を組み替えることにより、多種多様な鏡がつくられた。そして、同笵鏡と呼ばれるコピーがつくられた。粗製乱造とはいえないまでも、大量生産されたものであることは確かである。・・・中国と交渉するなかで、ヤマト王権によって、『おおやまと』地域において、あらたに創出された鏡が三角縁神獣鏡である」。

日本の古代史に関心を持つ者にとっては、見逃すことのできない一冊です。