寝殿造の虚像を暴く・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2246)】
アスチルベ(写真1)が咲いています。コウゾ(写真2)が実を付けています。我が家の庭では、コクチナシ(写真3)が間もなく咲きそうです。ガクアジサイ(写真4)、アジサイ(写真5)が見頃を迎えています。
閑話休題、『平安貴族の住まい――寝殿造から読み直す日本住宅史』(藤田勝也著、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)のおかげで、3つのことを学ぶことができました。
第1は、寝殿造は左右対称であるという通説は間違いであること。
「寝殿造とは、平安時代の平安京で成立した貴族の住宅に与えられた様式名である。主人や家族の住まいであり、儀式の主会場にもなった、もっとも中心的な建物が『寝殿』であることから、そのように呼ばれている。・・・寝殿を中心に複数の建物を左右対称に配置するというのが、寝殿造の大きな特徴であると説かれる。信頼性が高く権威があるとされる事典・辞書類はもとより、学術書から一般の啓蒙書の類いにいたるまで、巷間の書物をひもとけば、そのように記されているのを新旧問わず容易に見つけ出すことができる」。しかし、著者は、これは寝殿造の「虚像」だというのです。
第2は、寝殿造の「虚像」を広めたのは、江戸時代後期の沢田名垂という人物であること。
「日本の住宅の沿革を説くのに、『寝殿造』(ならびに『書院造』)という語がはじめて用いられたのは、江戸時代後期の会津藩士で、国学者であった沢田名垂(1775~1845年)が著した『家屋雑考』においてである。この書の中で名垂が描いた『寝殿全図』と題する図は後に、寝殿造をめぐる住宅史の研究に大きな影響をおよぼすことになる。しかし名垂が図の根拠として用いた史料は信頼性に欠けるものであった」。名垂の図が寝殿造の実態を正しく描いたものでないことは、東三条殿の復元研究によって裏付けられているというのです。
第3は、寝殿造と書院造の関係が明らかにされていること。
「寝殿造が変容して書院造になったという通説では、寝殿造の変容の結果として書院造が生まれた、あるいは後者が前者にまるごと取って代わってしまったかのように誤解されてしまう。しかしそれは寝殿造という様式の本質を踏まえない見方であり、寝殿が消滅し、寝殿造を保持しなくなった武家の住宅に矮小化した見方であり、貴族住宅の表層だけを辿った見方である。寝殿造を成立させたのは上位の貴族層である。そして彼らは日本の住宅史に大きな役割を果たした。寝殿造はしっかりたてつつ、新たな様式を周辺部に生み、育み、成長させた。武家勢力の台頭とともに成立した書院造がそうであり、数寄屋や茶室もそうであろう。通説にあえて寄り添って言い替えるなら、寝殿造から書院造へと主役は交代した、あるいは後者の方が前者に比べてより支配的になった、ということである。寝殿造が変容して書院造になったという通説は、住宅の全体像をみることなく、主役の動静だけに特化した局所的な説明に過ぎない」。