男の外見よりも精神の幸福を選択した万葉の女、一条天皇と定子のおおっぴらな性、そして、院政期最大の恋愛スキャンダルの真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2264)】
シオカラトンボ(写真1)の交尾(左が雄、右が雌)、ショウジョウトンボの雄(写真2)、ウチワヤンマ(写真3)、イチモンジチョウ(写真4)、囀るホオジロ(写真5)をカメラに収めました。ヒマワリ(写真6)が咲いています。シマススキ(写真7,8)の葉が涼しげです。クダモノトケイソウの園芸品種‘サニーシャイン’が実(パッションフルーツ)を付けています。
閑話休題、論集『恋する日本史』(『日本歴史』編集委員会編、吉川弘文館)で、とりわけ興味深いのは、大谷歩の「万葉びとの『恋力』――『万葉集』にみる非貴族階級の恋」、高松百香の「『一帝二后』がもたらしたもの――一条天皇、最期のラブレターの宛先」、野口華世の「院政期の恋愛スキャンダル――『叔父子』説と待賢門院璋子を中心に」の3篇です。
●万葉びとの「恋力」――
「この歌は、児部女王が尺度の娘子を嗤笑した歌である。尺度の娘子と児部女王は共に閲歴未詳の女性であるが、(『万葉集』の)巻六はおよそ天平期頃までの歌が収録されていると考えられていることから、その頃までに生きた女性たちであろう。・・・歌によると、尺度の娘子は結婚相手はよりどりみどりの美しい女性だったようである。その娘子は、『高き姓の美人』(男性)の『誂』(求婚)を聞き入れず、『下き姓の媿士』(男性)の『誂』に応じた。そのことを児部女王が『愚』であるとして『嗤咲』(嗤笑)し、歌を作ったとある。歌の『角のふくれ』は、『下の姓の媿士』の容貌を指すと思われ、『媿士』は恥じ入るばかりの醜い男という意味である。児部女王の嗤笑は、娘子の選択した男の容貌と、そのような男を選んだ娘子に対して向けられている。この作品について中西進氏は、尺度の娘子は『外的条件よりも精神の幸福を信じた』女性であると評し、一方の児部女王は『無神経で逞しい』女性であり、『この少女を愚であると断定する気持ちには、もはや恋というものの生ずる余地はない』のだという。この『高き姓』と『下き姓』は娘子を基準とした時の評価であり、いわばエリートイケメンとブサイク貧乏のどちらを選ぶかという選択を迫られ、ブサイク貧乏を選ぶという意外性が、児部女王の嗤笑の根底にある。そこには、当然『高き姓の美人』を選ぶはずだ、選ぶべきであるという児部女王の価値観が存在し、それは当時の人びとの大方の意見と合致するものであったのだろう。娘子は、外的な要因である『高き姓』でも容姿でもないものを選択した。それは、中西氏が述べるところの『精神の幸福』であり、娘子は、目には見えない相手の真実の心に、最上の価値を見出したのである」。この件(くだり)を読んで、高校の同期会で同期の女性2人から奇しくも、「子供も孫もいるが、夫とは、相手が亡くなるまで会話も心の通い合いもなかった」と聞かされたことを思い出しました。「精神の幸福」の大切さを再認識した次第です。
著者は、さらに考察を進めています。「加えて、この娘子は2人の男性に求婚されながら、一方の男を選択している。・・・この娘子が一方を選択するという態度は、古代的な妻争いの話型を脱し、女性が婚姻において新たな生き方を獲得したことを意味する。この娘子の『愚』なる選択は、婚姻に対する価値観に多様性が生じてきたことを示すものである。それは、外的条件によらない『精神の幸福』に価値を見出す女性の登場であり、婚姻の価値基準における一つの画期であると思われるのである」。
●「一帝二后」がもたらしたもの――
「彰子は年齢的に幼いのみならず、おとなしい性質で、なかなか夫となった一条とも打ち解けられなかった。知的で華やか、3歳年上の定子によって成熟をもたらされた一条天皇にとっては、物足りない幼妻であったようだ。『栄花物語』巻六(かがやく藤壺)には、一条が夜が明けてから彰子のいる藤壺に渡り、道長が用意した舶来の書物や名品の数々などを堪能しては、帰ってゆく様子が描かれている。夜は定子や元子など、成熟したほかのキサキたちのもとへ行くのである。きわめて健全、かつバランス感覚に富む青年天皇である。『枕草子』『淑景舎、春宮へまゐりたまふほどの事など』段には日中、親族のいる間近で御帳台に入る、つまり性交しようとする一条と定子の姿が記されている。天皇とキサキたちの性愛は、決して閉ざされたものではなく、むしろ公とも言えるものであり、心身ともに幼く未熟な彰子に懐妊の機会がないことは周知の事実であった」。
天皇とキサキたちの性の実態にたじろぐ私であるが、定子の辞世には、腰を抜かすほど驚かされました。「(3人目の子を出産直後の)定子の死後、御帳台の紐に3首の歌を記した紙片がくくりつけられているのが発見された(『栄花物語』巻七)。<よもすがら 契りしことを 忘れずば 恋ひん涙の 色ぞゆかしき>(他の2首は略)。3子をなした夫一条に対しての激しい愛情を刻んだ辞世歌である。死を覚悟の出産であった。とくに著名なのは、『よもすがら』であろうか。死に至るまでの最後の3年間、父関白道隆の死、兄弟による『長徳の変』と不幸が重なり、定子の后妃としてのプライドはこっぱみじんの状況であった。『一帝二后』はその最たるものであったわけだが、この歌はここまでの忍耐を解き放ったとしか思えない奔放な歌である。『一晩中セックスしたことをどうか忘れないで。遺されたあなたが流す涙は、きっと血の色』とでも訳してみたい」。
●院政期の恋愛スキャンダル――
「白河院の養女であった待賢門院藤原璋子は、白河院の孫である鳥羽天皇に入内し妻となったが、実は夫の祖父である白河院と密通していて、そのことはみな知るところであったという。鳥羽院と待賢門院璋子との間に生まれた崇徳天皇は、本当は白河院と待賢門院との子どもであり、父鳥羽院自身もそれを知っていて、自分の子でありながら、祖父白河院の子であるならば生まれながらに叔父であるので、『叔父子』と言っていたという。これが原因で二人は不仲だったというのである。この『叔父子』という言葉が衝撃的でもあり、著名な話であろう」。
私も「叔父子」説を信じてきたが、どうも、最近の研究では異なる見解が示されているというではありませんか。「『叔父子』説は『古事談』が唯一の史料的根拠だということである。つまり、『古事談』には『叔父子』説が書かれたが、それを知っていたはずの慈円が著した歴史書『愚管抄』には記されていない、のである。両書はほぼ同時期に成立している。それにもかかわらず、『叔父子』説を語るのは『古事談』のみである。慈円はなぜ『愚管抄』で『叔父子』説を記さなかったのであろうか。それは『愚管抄』が歴史書として書かれているから、なのではないだろうか。このことはすなわち、鎌倉初期においても『叔父子』説は、『叔父子説の噂』に過ぎず、すでに歴史的事実として認識すべき話ではないとみなされていたといえるのではないだろうか。『叔父子』説が『愚管抄』に記載されていないこと自体が、そのことを如実に示しているのである」。
歴史好きには、勉強になる一冊です。