榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

藤原彰子は、父・道長と異なり、理非を弁えた女性だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2089)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年1月1日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2089)

元旦、お節を食べながら、テレビで富士山の初日の出を拝み、朝のうちに、近所の茂侶神社と皇大神社に初詣でをしました。

閑話休題、『藤原道長を創った女たち――<望月の世>を読み直す』(服藤早苗・高松百香編著、明石書店)で、とりわけ興味深いのは、藤原道長の長女・彰子と、彰子に仕えた紫式部を扱った章です。

●彰子――。
「彰子は深い信仰心のみならず、道長の寺院統制などの政治的手法も学んでいたのではなかったろうか」。

「長保2(1000)年2月25日、東三条院詮子と道長のいわばごり押しで彰子を中宮に、定子を皇后にする。前代未聞の一帝二后である。彰子が立后儀式のために内裏から退出したその隙の2月21日から3月27日まで、一条天皇は、定子と2人の幼子を参内させ、定子は妊る。12月16日、定子は○子内親王を出産し亡くなる(○=女偏に美)。・・・定子と彰子が一緒に一条天皇のキサキだったのは1年たらず。一度も会ったことなどなく、ライバル関係などでもなかった。唯一の皇位継承資格者である(定子が産んだ)敦康親王を、伊周や隆家の伯叔父たちに渡すと摂関が移る可能性が高い。・・・(道長は)彰子を敦康親王の養母にする・・・敦康親王は道長邸に移り、寛弘元(1004)年正月から彰子殿舎の藤壺で養育される。本格的養母である。子どものいない漢の馬皇后が、明帝から粛宗の養育を託され見事に育てあげ、私情を差し挟まず賢夫人と讃えられた故事を、彰子は学んでいた」。

「彰子がやっと懐妊したのは、寛弘4(1007)年冬のことであった。・・・翌年、彰子は、難産の末、9月11日、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産する。道長は喜悦した。しかも、翌寛弘6年11月には、敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産する。しかし、寛弘8年、病を得た一条天皇は6月13日譲位し、三条天皇が皇位につく。一条天皇の意を忖度した彰子は、まずは敦康親王を東宮にとの心づもりであったが、道長は彰子に相談することなく敦成親王を東宮にする。彰子は、馬皇后の故事の如く託された敦康親王を皇儲にする所存だったから、父を怨む。22日、失意の内に一条天皇は崩御する。彰子は24歳でいわゆる『後家』となった」。

「長和5(1916)年正月29日、眼病の悪化と道長の圧力で三条天皇が譲位し、ついに息子が後一条天皇となった。9歳の幼帝である。道長は摂政になった。29歳の彰子は、国母として幼帝と共治を行う。・・・院政の魁は彰子だったことが確認される。・・・(1017年)5月9日に三条院が崩御すると、8月、三条院皇子敦明親王が東宮を辞退する。道長は、早速敦良親王を東宮に立てる。道長は、『彰子の様子は言うべきにあらず』と記しており、彰子はこの時も敦康親王を東宮にする所存だったことがうかがえる。しかし、東宮が決定すると、彰子は東宮職司等の人事を道長と共に行う」。

「(1026年)正月19日。彰子は出家し、上東門院となる。39歳だった。・・・ただし、出家しても道長と同じように内裏に参内しており、天皇家家長として威力を発揮し続ける。・・・(1027年)12月4日、道長は飲水病(糖尿病)が悪化し、激しい下痢を繰り返し、癰の激痛にさいなまれ、法成寺で亡くなった。・・・41歳の彰子は、長元元(1028)年から承保元(1074)年87歳でこの世を去るまで、天皇家と摂関家の実質的家長として、後一条天皇以下の天皇や摂関の弟たち頼通・教通を40年以上支え続ける」。

一条天皇の最愛の女性・定子の敵役と位置づけられがちな彰子であるが、本書により、彰子は、父・道長とは異なり、理非を弁えた女性であったことを知り、好感を抱いてしまいました。

●紫式部――。
「女房は天皇から貴族まで、主人の邸宅に部屋(局)を与えられ、主人の身近で奉仕する上級の女性使用人である。・・・彰子入内の際に編成された女房集団も、道長・倫子(夫妻)によって選ばれたと思われるが、キサキを支える年上の身内のほかに、すでに定評のある皇后定子の女房集団に負けない文学的センスを持つ女房を集め、天皇を引き付ける必要があった。『栄花物語』には彰子入内の時付き添った女房を40人とし、四位五位の女(貴族)であっても、世間づきあいが悪く、生い立ちが芳しくないものは採用せず、『ものきよらかに、成出よきをと』選んだと書かれている。また道長の地位が他から隔絶していく中で、それまで女房になることが考えられなかった公卿や大臣の娘でさえ中宮の女房となるケースが起こってきた。序列の強化である。・・・紫式部についても、『尊卑文脈』に御堂(道長)妾と書かれているように、道長と愛人関係にあった可能性もある」。

「道長は父兼家に学んだのか側に仕えている女房と性的関係を持つことが結構多かったようである。・・・道長が紫式部と性的関係を持ったかどうか、日本文学研究では相当数の論文があるという」。

数々の状況証拠から、紫式部は道長と性的関係を持ったと、私は考えています。