榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

源義経の母、妻、妾・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2461)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年1月12日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2461)

東京・葛飾の水元公園で、アカハラの雄(写真1~4)、シロハラ(写真5)、ツグミ(写真6)、カワラヒワ(写真7、8)、カワセミの雄(写真9、10)、ユリカモメ(写真11~13)、ヒドリガモの雄、雌(写真14)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は21,197でした。

閑話休題、『源義経』(五味文彦著、岩波新書)で私が注目したのは、源義経の母・常磐、妻・川越重頼の娘、妾・静です。

●常磐――
「義経の母常磐が、(源)義朝と知り合ったのはいつのころであろうか。常磐は『平治物語』に『九条院の雑仕』と見え、九条院(藤原呈子)に仕えている。・・・したがって義朝が常磐を知ったのは早くとも久安4年のことであろう。常磐は『平治物語』に『廿三なりき。中宮の官女にて物なれたる』と記されており、中宮に仕えるようになった事情については、『大宮左大臣(藤原)伊通公の、中宮御所へ、見目よからん女まゐらせんとて、よしときこゆる程の女を、九重より千人召されて百人えらび、百人より十人えらび、十人がうちの一にて、この常磐をまゐらせられたり』とあって、中宮の父伊通によって千人の美女のうちから選ばれた官女という。・・・雑仕は主人の身の回りの世話をする官女で、『女房』と比べて父親の位がいちだんと低い場合の処遇である。常磐の父の出身地は明らかでないが、常磐が平治の乱後に逃れたのが大和の宇陀郡の竜門牧であれば、あるいは宇陀郡に根拠地を持っていたかもしれない。義朝は鳥羽院に仕えるうち、美福門院や中宮に仕え、やがて常磐を知るところとなって、3人の子を儲けたのであろう」。

「(平治の乱後)都に戻った常磐の涙ながらの訴えが平清盛に認められ、幼い子の命は助けられたものの、常磐は『尋常なる一室』に住まわされ、清盛がそこに通ううちに女子1人を儲けた。・・・『平家物語』は、常磐が清盛との間に儲けた女子は、花山院兼雅に養育された『廓の御方』と称される女性であったとする」。

「常磐は平清盛との間に女子1人を儲けたが、清盛に捨てられた後、藤原長成の妻となり、子どもを多く産んだという。・・・『公卿補任』の記事から、長成との間に生まれた良成は、長寛元(1163)年生まれとわかり、常磐と長成との関係は遅くともその前年に始まっていた」。母を同じくする、義経の異父弟の良成が、早くから義経の陣営に属し、西国落ちにも同行していたことを、本書によって知ることができました。

●川越重頼の娘――
「義経との関係がギクシャクするなかで、(源)頼朝は9月14日に武蔵の川越重頼の息女を上洛させて義経に嫁がせるように計らっている。かねてからの約束であったといい、その一行には重頼の家の子2人と郎従30余輩が従ったという。重頼の妻は頼朝の乳母比企尼の娘で、重頼は武蔵の秩父氏の中心人物であった。・・・武蔵の有力武士であったわけで、この婚姻は極めて重視されていたものと考えられる。しかし頼朝・義経の関係の改善はもたらされなかった。文治元年11月12日に義経の謀反がはっきりすると、重頼の所領は没収され・・・」。

「義経は奥州に逃れ、文治5年閏4月30日に藤原泰衡に襲われて自害したのだが、その時に22歳の妻と4歳の女子がいたという。その女子は文治元年の生まれなので、母は重頼の娘であったと見られる」。

●静――
「通憲入道(藤原信西)の作った舞が磯禅師に伝えられ、それが(娘の)静に継承されたのが白拍子舞であったという。・・・磯禅師は白拍子を育成し、また派遣するセンターのような機能を果たしていたことがわかる。静はその娘であるとともに、センターの一員でもあって、そのことから義経に召され、やがて『妾』になったものと考えられる」。

「(静が、文治2年4月8日、鶴岡宮の廻廊において、頼朝と(妻)政子の前で舞を舞ったことはよく知られているが)5月14日には、工藤祐経らの頼朝の側近たちが酒を持参し静の旅宿に赴いて酒宴を開いている。静も磯禅師もその郢曲の妙を尽くしたが、梶原景茂が酔った勢いで静に言い寄ると、静は次のように語ってきっぱり拒否したという。義経は『鎌倉殿(頼朝)御連枝』(頼朝の兄弟)であり、『吾は彼妾』であって身分が違う、と」。

「鎌倉では文治2年閏7月29日に静が義経の男子を出産している。・・・鎌倉の由比浦に赤子を捨てるために、家主の安達新三郎が請取りに赴いたところ、静は子を抱きかかえて伏し、数刻ほど泣き叫んだという。しかし新三郎が厳しく譴責したので、磯禅師が赤子を静から奪い取って新三郎に与えたという。このことを聞いた政子は愁い嘆き、何とかならないかと頼朝に訴えたが、それは叶わなかった。こうして9月16日に静と母は帰洛の途につき、政子と(娘の)大姫は静を憐れみ多くの重宝をあたえたという」。