外山滋比古の初期エッセイ集は、なかなか読み応えがあるぞ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2301)】
ツクツクボウシの雄(写真1、2)、ミンミンゼミの雄(写真3~6)、アブラゼミ(写真7)、アブラゼミの抜け殻(写真8)、ニイニイゼミ(写真9)をカメラに収めました。逆様に止まっているミンミンゼミは、粘った甲斐があり、40cmという近さで撮影することができました。ホオジロの雄(写真10)が盛んに囀っています。散策から帰ってきた私を、玄関でガのセスジスズメの幼虫(写真11、12)が出迎えてくれました(笑)。
閑話休題、『ホレーショーの哲学』(外山滋比古著、展望社)は、外山滋比古の初期エッセイ集です。
とりわけ印象に残ったのは、「ホレーショーの哲学」、「漱石のたおやめぶり」、「語録の人」の3篇です。
●ホレーショーの哲学――
「(明治36<1903>年5月22日に日光の華厳の滝で投身自殺した第一高等学校生徒・藤村操の『巌頭之感』に記されていた)ホレーショーという哲学者は実在しなかったのである。結局、シェイクスピアの『ハムレット』の中から生まれた想像上の人物ということらしい。ことは、ことばの解釈にかかわる。一字一句が、ないがしろにできない、これはまさに典型的な例である。『ハムレット』の第1幕第5場167行に、有名なせりふがある。There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy. 言うまでもないことだが、ホレーショーはハムレットの学友で、ウィッテンバーグの大学で哲学を学んでいる青年だが、国王の葬儀に列するために帰国した。このせりふは、ハムレットがそのホレーショーに向かって言ったものである。『ホレーショー、天地の間には、哲学などが思いも及ばないことがたくさんあるね』といったほどの意味である。シュトルム・ウント・ドラングの時代の人は、そんな散文的な解釈を喜ばなかったに違いない。『ホレーショーよ、汝の哲学の考えも及ばざる底の神秘が・・・』といったふうに考えたかったであろう。『汝の哲学』という以上、ホレーショーは哲学者でなくてはならない。本当にそんな哲学者がいるのか、いないのか、だれも知らない。シェイクスピアの言ったことだからたしかであろう。ホレーショーは哲学者である、となった」。外山は、この場合の「your」について、ハムレットは学友のホレーショーをからかって、「君の言う哲学なるもの」と言ったに過ぎないのに、いつの間にか、ホレーショーが大哲学者と見做されるようになってしまったことを指摘しているのです。
●漱石のたおやめぶり――
「漱石によって近代小説がおもしろいものであることを立証した。ますらおぶりの文体では、いかに子規の文才をもってしても小説にはならない。たおやめぶりの文体を発見したのは、漱石の天才である。あのおしゃべり文体、ジェーン・オースティンへの傾倒、心理学への早い着目などいずれも、たおやめぶりを裏づける。漱石はV・ウルフのいう、男女両性具現、アンドロジナスな文学者であったのだ」。漱石の魅力の一端が明かされています。
●語録の人――
「(サミュエル・ジョンソンは)本については、興味にまかせて読むのがよい。義務として読んだものはほとんど役に立たないと言う。怠けものらしい、せりふである。T・S・エリオットが、書評がうまくいくのは、そのために読んだときではなくて、あらかじめ仕事をはなれて読んでいた本を、あとで頼まれて書評するときだ、という意味のことを言ったのを思い出させる。エリオットがジョンソンを大事にしたことは有名なこと。『ジョンソンと意見を異にするのは、つねに、危険だ』とさえ言った。『つねに』というのはジョンソンの口調かもしれない」。
「ジョンソンは、夜、疲れたときに読むのに適している。いやなことを忘れる。しみじみとした気分になる。ときとして、新しい勇気をかき立てられて、仕事を始めないではいられなくなることも、ないではない。常識的のようでいて、切り口は新鮮であり、決して退屈をしないが、ただ、すこし年をとってみないと、そのあたりのところがわかりかねる。英文学の作品にはそういうものがすくなくないけれども、ジョンソンはそのゆうたるものである」。俄然、ジョンソンに興味が湧いてきました。