踊念仏の時宗を開き、遊行を続けた一遍の生涯を、『一遍聖絵』で辿る一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2303)】
2カ所で、吸水するアオスジアゲハ(写真1~4)たちに出会いました。キノコ(写真5)をカメラに収めました。
閑話休題、『「一遍聖絵」の世界』(五味文彦著、吉川弘文館)は、一遍が亡くなってから10年後に完成した全12巻の絵巻『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』を、さまざまな角度から分析しています。
「『踊念仏』は空也上人が京の市屋道場、四条の辻で始めたもので、空也が記したという、心に執着がなければ、様々な妨害を耐え忍ぶことができ、慈悲の思いが深ければ悪口も聞こえてこない、口にまかせて唱える念仏三昧であれば、市中は道場である、身と口と心の三つをすべて天運に任せ、行・住・坐・臥の四儀をあげて仏道に捧げる、という内容の文を一遍は常に持っていたという」。
「小屋の果てたところに板葺切妻の高床の舞台が造られ、その舞台で一遍と時衆が躍り回り、鉦をたたき、板を踏み鳴らしている。その音は極めて効果的であった。信州の踊念仏には多くの人が加わったが、この時から時衆に限られるようになり、囃す楽器も鉦鼓になる。下から大勢の道俗が眺めている。合掌する男女、袖で口をおおう女、市女笠の女、下げ髪の女、傘をさす頭巾の女、その一人は傘の柄に仏画の巻子をつけた絵解きと見られる。牛車の中から見る者、白衣の坊主頭の武士の一群、それに小坊主を連れた琵琶法師などもいる。馬の背に小櫃を載せ弓・空穂を持つ蓑帽子の行商人が舞台を見つつ通ってゆくが、その先には荷を背にする頭巾の男が鎌倉に向かい、かたわらの厩に隣接する鳥居は江の島神社の鳥居である。鎌倉入りを阻止されたものの、片瀬での踊念仏により多くの信者を得た一遍は、弘安5(1282)年7月16日に片瀬を出て上洛を目指した。4か月以上もの滞在であった」。
「関寺の池の中島に広い板屋舞台がつくられ、一遍ら時衆が右回りに踊念仏を行っており、それを僧俗が池辺から見ている。手をあわせて拝む者、地面に手をついて頭を下げる者など様々だが、両手を耳にあてる者がいるのは、池の水に反響して音がやかましいからであろう。三井寺の衆徒は、近くで立って見る者もいるが、その多くは堂の下に敷かれた板に座って見物している。・・・こうして山門・寺門の諒解を得たことから、一遍は上洛を遂げたのだが、前回とは違い熱狂的に迎えられた」。
「釈迦堂の前の四条大路は大賑わい。牛車や馬で駆け付けた者、歩いてきた者など大勢の僧俗男女が門に殺到している。・・・西からは武士の一行が釈迦堂に向かって進み、それと直交する道を輿に乗る貴人の一行が南北に下ってきている。・・・空也が天慶元(938)年に京に入って市中の民衆に熱狂的に迎えられて、口称念仏を弘め、六波羅蜜寺を創建したその跡を追い、遺跡である七条市跡に市屋道場をつくった。・・・一遍はその道場で48日を過ごしたが、これはまさに多くの苦難を経ての一遍の凱旋公演と言えよう。・・・舞台では中央の一遍が真っ直ぐ前を見て、時衆が法悦の表情で足を高く板を踏み鳴らす。下から観衆が見上げ、また輿の中や設営された桟敷から見ている」。
「(市屋を立った一遍は)村に入り、名もない堂で念仏を勧めるようになった。それはどうしてであろうか。上洛した一遍は大歓迎を受け、多くの貴顕も訪ねてきたのであれば、京に留まり布教を続ける道もあっただろう。しかしそうはしなかった。そこに一遍の真骨頂がある。遊行の旅は一か所に留まるものではなく、常に新たな道を求めるものであった」。
豊富なカラー図版の絵巻を見ながら、仏道修行から始まり、踊念仏の時宗を開き遊行を続け、50歳で亡くなるまでの一遍の生涯を辿ることができます。一遍という人物の本質に迫るには、最適な一冊です。