坪内祐三と佐久間文子は、型破りではあるが、いい夫婦だったんだな、と感じた・・・【あなたの人生が最高に輝く時(86)】
浅学にして、私は坪内祐三という人物も、その妻の佐久間文子という人物も知らなかった。『ツボちゃんの話――夫・坪内祐三』(佐久間文子著、新潮社)を読んで、型破りではあるが、いい夫婦だったんだな、と感じた。
「いつもふらふら飲み歩いているツボちゃんは、仕事の面では驚くほど勤勉なひとだった。雨の日も雪の日も台風の日も。土日も盆も正月も関係なく、自宅から歩いて五分足らずのところにある仕事場マンションに出かけて、何かしら原稿を書いたり本を読んだりしていた。雑誌の連載を含めると締切がひと月に二十以上、多いときは毎日何かの締切を抱えるような状態だったが、それがぜんぜん苦にならないようで、『皿回しの皿を、いくつも同時に回していくみたいな感じでやるのがこれで結構たいへんなんだよ』と、ちょっと得意そうに言っていた。原稿は手書きで、書くのはとても早かった。本を書評するとき彼は大事なポイントに市販の一番小さな付箋を貼っていく。ポイントを見極めるのも早いようで、数カ所、多くても十カ所くらいにしか付箋を貼らない。家にいるときはソファに寝転んで何かしら読んでいたし、読んでないときはテレビを見ていた」。付箋で本がハリネズミのようになる私とは、大違いである。
「広津和郎の『みだりに悲観もせず、楽観もせず』という一節がツボちゃんは好きで、たまに口にすることがあった。『どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神』を、広津は『散文精神』と名づけた。その感覚は、書き手としてのツボちゃんにとてもしっくりくるようだった。近代文学館の入口で出会った彼のかたわらには当時の恋人がいた。『みだりに悲観もせず、楽観もせず』と広津が書いたのは、広津が女性問題で悩んでいた渦中のことだったと、彼はこの日の展示を見てはじめて知ったらしい。連載で読んでいたはずのそのくだりを読み過ごしていた私は、彼が亡くなったあとでそのことに気づいた」。
「ツボちゃんがばったり誰かに会うのは、街をふらふら歩いている時間が人より長かったせいもあると思う。フリーランスのもの書きは、四十代になっても五十代になっても、学生みたいにほっつき歩いていても誰からもとがめられない。なかでも人に会うことが多かったのが、神田神保町の書店街だ」。
あとがきに、こういう一節がある。「おたがい配偶者や恋人がいたのに相手と別れて一緒になったから、そう(=大恋愛だったのだろうと)思うひとがいておかしくはないけど、甘い雰囲気でいられた時期はとても短かった。一緒に暮らし始めてすぐに彼が暴力事件にまきこまれて死にかけたり、実家のゴタゴタがあったり、次から次へと何かが起こり、恋人というより、家族であり同志みたいな関係になってしまった。まじめな新聞記者だったはずの私が突然、離婚してツボちゃんと暮らしはじめたことは私の周りの人をひどく驚かせ、どうしてなのか、彼のどこが良かったのか、当時いろんな人から聞かれた。自分の気持ちが自分でもよくつかめず、口ごもってうまく答えられなかったけど、一度、はかない感じがするひとなんですと、取材を通して親しくしていたノンフィクション作家の女性に言ったことを覚えている」。2020年1月に、ツボちゃんこと祐三は、高血圧性心疾患で死去、61歳であった。