榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

戦前・戦中の平凡な家庭が活写されている向田邦子のエッセイ集・・・【山椒読書論(282)】

【amazon 『父の詫び状』 カスタマーレビュー 2013年9月16日】 山椒読書論(282)

なぜか、突然、向田邦子の文章を読み返したくなって、書棚から『父の詫び状』と『思い出トランプ』を引っ張り出してきた。

向田のテレビドラマの脚本も短篇小説もそれなりにいいが、個人的にはエッセイが一番気に入っている。

父の詫び状』(向田邦子著、文春文庫)が登場した時、辛口評論で鳴る山本夏彦が、「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と絶讃したというのは、よく知られた話である。谷沢永一や山口瞳といった文章に一家言を持つ人たちからも強い支持を得ていた。

向田のエッセイの見事さはいろいろあるが、私にとっての魅力は3つにまとめることができる。

第1は、いずれのエッセイも非常に短いことである。無駄な部分がないのだ。

第2は、さりげない書き出しから始まり、さまざまな思い出が互いに関連なく語られたかと思うと、最後には鮮やかに一つのテーマに集約するという手品のようなストーリー展開である。しかも、意匠を凝らすというふうではなく、自然の成り行きという形で進んでいくのである。その上、何か特別な驚くべき事件が起こるわけではなく、日常生活の断片が淡々と描写されていくのである。

第3は、これが私にとっては最も重要なのだが、向田自身が経験した戦前・戦中の子供時代の平凡な生活の有様が映像のように活写されていることである。これは、向田より15歳年下の私の戦後の子供時代に通じるものがあるからだろう。

『父の詫び状』には24篇のエッセイが収められている。

「生れて初めて喪服を作った」と始まる「隣りの神様」には、こういう一節がある。「『お前は全く馬鹿だ』 口汚くののしり、手を上げながら、父は母がいなくては何も出来ないことを誰よりも知っていた。暗い不幸な生い立ち、ひがみっぽい性格、人の長所を見る前に欠点が目につく父にとって、時時、間の抜けた失敗をしでかして、自分を十二分に怒らせてくれる母は、何よりの緩和剤になっていたのではないだろうか。『お母さんに当れば、その分会社の人が叱られなくてすむからね』と母はいっていた。思い出はあまりに完璧なものより、多少間が抜けた人間臭い方がなつかしい」。

「留守番電話を取りつけて十年になる」と切り出される「お辞儀」では――物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に坐る父しか見たことがなかった。それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。私は、父の暴君振りを嫌だなと思っていた。母には指環ひとつ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッと糊の利いた白麻の背広で会社へゆくのか。部下が訪ねてくると、分不相応と思えるほどもてなすのか。私達姉弟がはしかになろうと百日咳になろうとおかまいなしで、一日の遅刻欠勤もなしに出かけていくのか。高等小学校卒業の学力で給仕から入って誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇進をした理由を見たように思った。・・・肝心の(祖母の)葬式の悲しみはどこかにけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。