『老子』は、けっして隠遁者の自己満足だけを追求した書物ではないのだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2520)】
フサアカシア(ミモザ)が咲き始めました。
閑話休題、『老子探究――生きつづける思想』(蜂屋邦夫著、岩波書店)は、老子という人物とその思想について学ぶことの多い著作です。
とりわけ興味深いのは、老子の人物像、老子の思想、道家と道教の相違点――の3つです。
●老子の人物像
「(司馬遷の『史記』の)『老子伝』と『孔子世家』では、老子が(孔子に)言ったことは同じではないが、どちらもギラギラした自己主張を戒めている点では同じである。『己を有するなかれ』も、やはり自己主張を退けた教えであり、そうした考え方は、すこぶる老子的である。『老子』中に『史記』の言葉がそのまま出ているわけではないが、<みずから見識ありとする者はものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰(あき)らかにできない。みずから功を伐(ほこ)る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない>(『老子』第二十四章)、<力で押し通す者は、まともな死に方ができない>(第四十二章)、<本当の言葉は華美ではなく、華美な言葉は本当ではない。本当の弁論家は弁舌が巧みではなく、弁舌が巧みな者は本当の弁論家ではない。本当の知者は博識ではなく、博識な者は本当の知者ではない>(第八十一章)などは、『史記』に描かれた老子の風貌によく合致している」。
●老子の思想
「司馬遷の評語にある『無為にして自ずから化し、清静にして自ずから正し』は『老子』第五十七章の<我れ無為にして民自ずから化し、我れ静を好みて民自ずから正し>を引用したものである。『我れ』とは為政者のことである。為政者が無為だと人民は自然によく治まるというのは、為政者の得手勝手によって人民が塗炭の苦しみを受け続けてきた長い歴史を背景にした言明であり、為政者が清静であれば人民は正しくなるというのは、為政者の欲望三昧によって人民の生活が乱され続けてきた事実に立脚した思想である。それは『老子』に盛られた思想の要点とも言えるものであって、司馬遷が老子の思想の本質を的確に把握していたことを示している」。
●道家と道教の相違点
「道家とは、言うまでもなく諸子百家の一つで、独特の『道』の思想を尊重する人たちのことである。老子と荘子をその代表者とするが、『荘子』には政治だの権力だのに対する嫌悪感が目立つ。これに対して『老子』には、<無為にして為さざる無し(何もしていないのに、すべてのことを為しとげている)>という立場からの為政への関心が、我々の想像以上に色濃く見られる。けっして隠遁者の自己満足だけを追求した書物ではないのだ」。
「一方、道教は、道を神格化した多くの神々を信仰し、長生きや生活の安寧を願う宗教である。そこに、神仙思想やら錬金術、健身体操、医術そのほか、さまざまな方術や思想が流れこみ、複雑なものとなった。仏教が中国社会に受容されるようになると、その形式や内容のさまざまな面を取りこみながら、その一方で、仏教に対抗して教団組織や神々の系譜や経典や修行法などが体系づけられるようになった」。
すなわち、道家は思想家であり、道教は宗教なのです。